On the Homefront

東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

総選挙順位発表スピーチの場で結婚発表することについて~人生を危険に晒す須藤先輩さすがっす!!~

 6月17日の『第9回AKB48選抜総選挙』の開票イベントにおいて、NMB48の人気メンバー「りりぽん」こと須藤凜々花さんが結婚を発表しました。

 

 非常に知名度の高いアイドルグループに所属する、現役アイドルの晴れの舞台での突然の結婚報告は、大きな波紋と混乱を招いたと思われます。今回の選挙でも1位をとった48グループで最もテレビに出演している指原莉乃さんや、今回の総選挙には出場しなかったが前年の紅白歌合戦での投票では1位を獲得したNMB48のリーダー山本彩さんを含む多くの現役メンバーや、過去に総選挙で1位をとったことのある大島優子さんや、元総監督だった高橋みなみさんなど、すでに卒業したメンバーもブログやSNSで様々なコメントを残しました。また、お昼のワイドショーではご意見番と目される坂上忍さんが言及したり、また人間観察と毒舌に定評の毒舌トーク冠番組でMCもこなす有吉弘行さんは、自身がメインパーソナリティを務めるラジオ番組でこのことについてふれました。インターネット上で話題の出来事について持論を述べたりする炎上系youtuberシバターさんもこのことについての動画を2本上げました。そして、実際youtubeでは急上昇に関連動画が独占される事態が起こったり、またツイッターでもこの話題はトレンド上位にのぼったりし、このことからも多くの人々の関心事であることはうかがえます。

 

 私は、おそらく須藤さんのファンというほどではないと思いますが、以前からバラエティ番組での突拍子もないことを言ったり(エピソードトークのコーナーでおぎやはぎが司会を務める番組でアダルトビデオを見ていたときの話を、あまりそういう空気でもないのにしだしたのは印象的でした)、ディスコミュニケーションを感じさせるような相槌をしたり(須藤さんはよく「さすがっす!」と言いますが、人によってはちょっとバカにされてるような印象を持つような言い方のように思われます)する、須藤さんの振る舞いが面白いなあと思い、たまに彼女のツイッターをチェックしたり、彼女が共著で出した『人生を危険に晒せ』を読んだり、彼女がセンターを務めた曲『ドリアン少年』を聴いたりと、それなりに関心を持っていました。

 

 そのような立場からすると、須藤さんの今回の発言は、「やっぱりりりぽんは面白いなあ」という感想を抱くものでしかありましたが、巷にあふれる、ルールやモラルを持ち出して、許せないと憤るような反応は、ちょっと共感できないものでした。でも、そうした反応は、現在の社会規範や人間の感情のサンプルとして、とても示唆的なものだと思いました。たくさんのお金を払ってくれたファンや客に許される感情、そこであるとされる正当性の問題、ルールの穴をついたりこっそり破られているルールを堂々と破ったりすることはどのように扱われるべきなのか、本音と建前について、そもそもアイドルとはなにか、あるいはファンとはなにか、などなど。

 

 「哲学者を目指している」と、少なくとも日本において(外国でもきっとそうなのだろうとおもいますが)白眼視されるようなことを堂々と言い放ち、麻雀やヒップホップなどに関心を寄せ、独自のスタンスで、芸能活動をしてきた須藤さんが、今回のような騒動を引き起こす発言をしたのは、おそらく、このような状況でこのような発言をしたら、人は、社会は、どのような反応をするのか、という好奇心に基づいた、須藤さんの実験精神のようなものに起因している部分もあるように思います。だとすると、実際、人々の心は揺さぶられ、社会は大きな反応を示したと思うので、すごいです。実験成功といっていいと思います。

 

 ツイッターでは、プロデューサーである秋元康さんが過去に雑誌の対談で「総選挙のステージで結婚発表するのが一番かっこいいよね!」と述べていたことも今回の騒動をきっかけに話題になりましたが、私もやっぱりあんなことをしてしまう須藤さんは最高にクールだと思うし、アイドルと観客というコードに載せて発言するなら、ステージ上での須藤さんの姿にたくさんの元気をもらえました。(ありがとうりりぽん!結婚おめでとう~!最高にクールだよ!)

 

須藤先輩、さすがっす!!

 

 

 

 

中江

「文三」とは一体何なのか

 

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 東大の文三生を2年やり、またその後も「文三出身」として生活をしていると、否応無しに「文三」を貶める発言を聞く。「東大って言っても文三でしょう?」という言葉を文三出身である私に直接的にあびせてくるほど勇気のある人には(幸運にも?)お目にかかってこなかったけれど、「あなたはきちんと目的を持って文三に入ったのだろうけど…」という前置きから始まり、文一や文二の最低点の高さを倦厭して文三を選ぶ功利的な学生らを遠回しに批判する言説に直面したことはある。

 

 実際にそういう学生らは確実に一定数いる。また、「自分はそうでない」という思いがまず浮かんで来る人に関しても、ある行為を選択した理由を後から振り返ってすっぱりと言い切ることは難しいものだから、真摯に考えようすればするほど「比較的簡単に東大の称号を得たいから入ったという側面が、自分にもあるのかもな…」と思わずにはいられないだろう。

 

 もちろん、それは恥ずかしいことでもなんでもない。積極的にひけらかすことではないが、大学受験における「志望」というものには、多かれ少なかれ功利的な理由が含まれるものである。そのような理由とは全く無縁な人がいることは否定しないが、明らかに、少数派だと思う。

 

 冒頭に挙げたような、文三に対する遠回しな批判が、そのように取るに足らないのだとしたら、なぜあえてこのような話から今回の記事を始めたのか。その理由は、冒頭に挙げたような文三批判が、文三のよくわからなさに起因していると思われるからだ。この、「文三のよくわからなさ」について考えてみたい。

 

 文三と聞いて、どのようなイメージを抱くだろう。まず抱かれると考えられるイメージとは、「文学や哲学、歴史に詳しい人が多くいるのだろう」というものだ。

 

 これは大間違えである。誰からも一目置かれるような「詳しい人」は、30人のクラスに3人ほどいれば多い方で、一人もいない可能性すらありうる。

 

 また、「このご時世あえて実学につながる文一(法学)でも文二(経済学)でもなく、文三(人文諸学)を選ぶのだから、よほどやりたいことがはっきり決まっている人が多いのだろう」というイメージを抱いて入る人も多いかもしれない。それも大間違いである。大半は「漠然と人文科学に魅力を感じている人」だ。

 

 「じゃあ結局文三って何なの?」

 

 文三生こそ、それが知りたい。実のところ上に挙げた二つの幻想にもっとも強くとらわれるのは、他でもない文三生である。作り上げた「文三」イメージに期待を膨らませて入学し、遅くとも一ヶ月程度で、抱いていたイメージが「幻想」であることに気づく。

 

 そこからの反応は様々で、「自分はそうではないのだが、文三には多くの人が抱くイメージ通りの人々が(少数ながら)いる」と言って幻想を強化する者、「全然イメージと違った…」と落胆を隠さない者、実は将来の進路についてはブレブレなのに「私は高校時代からプルーストが好きで、どうしても仏文がやりたかったから文三に入ったの」と幻想をそのまま生き始める者、「東大入れるんならどこでもよかったんだよね」「やりたいこととかないんだけど」とぶっちゃけ始める者などがいる。

 

 

 …と古巣の文三について語り始めると、割と尽きないのだが、ともすれば自己陶酔的になるので、本当は、あまり好ましくないと自分で思っている。

とはいえ、続く。

私が文三だったわけ

 何かハンドルネームを用意しなければいけないのか。じゃあとりあえず五十嵐にします。よろしくどうぞ。

 

◇◆◇

 

 確かに、ブログやるならキャッチーに東大文三って名乗っちゃえ!みたいなことを私が言ったというのは間違いないが、こうして「文三ドイツ語クラス卒業生」という属性をアイデンティティとして背負うようなことになると、それはそれでずるいことをしているような気分で落ち着かない。全く他人の看板を借りているようだ。自分は間違いなく文科三類でしたけれど、文学や歴史にはまるでノータッチだし、哲学も心理も専門外です、と最初にお断りしておかなければならないだろうか。

 ただ、ひたすら考えて、熟慮して、考え尽くした上で少しでもぴったりくる言葉を選んで文章を書く、それがやりたい一心で今まであらゆることを選択してきたのだ。文三だったのも、今このブログにいるのも、もちろんそういうことである。

 

 考えないのは愚かなことだと思っていた。いや、今も多少は思っているけれど。それでも少し前までは、何事もよく考えて、熟慮して、考え尽くした上で少しでも後悔のない選択をすることがこの世で最も正しい在り方だと思っていた。そして、年を取って経験を積んで知っていることが増えれば、もっとマシなことを考えられるようになるものだと。

 今思えばこれだって一つの思考停止だ。何事もめちゃくちゃ悩んだ上で結論をひねり出すことが唯一の正解である、という価値観の盲信。実際にハタチを超えて分かったのは、年を取るということは世の中に知っていることが増えることなのではなく、知らないことがいかに多いかを知ることだ、ということだった。知っていることは10から20にはなったかもしれないが、そもそも知り得ることの分母が100だと思っていたのが大間違いで、せいぜい今分かるのはそれがもはやどれほど大きい数字なのかも分からないということだけだ。多少知っていることの分子が増えたところで、とても手の届くものではない。

 

 そういうことが、大学を卒業してようやく考えられるようになった段階なのだ。ところが残念なことに、やっと物事を考えられるようになったと思ったらそのときにはもう大学を卒業しなきゃいけなかったわけで……。やる気が行き場を失ったときに、このようなブログに参加させてもらえたのはラッキーだった。言うなれば、ずっと学生気分でいるために私はここに文章を書く。

 もっとも、「学生気分」などと学生と社会人を断絶させるような考え方は嫌いなので、文章を書こうと書くまいと私はずっと学生気分でいるつもりだといえばそういうことになるし、そもそも学生のときに学生気分というものになった覚えもないので、そんな気分自体初めから存在しないとも言える。とにかく、学生気分の社会人とか、文三ドイツ語出身者とか、そういったカテゴリーはとっかかりとしては重要かもしれないけれども、ただそれだけだ。主従関係は見間違わずにいたい。文三ドイツ語という人種の中に私がいるのではなくて、私の中に文三ドイツ語だったという要素がたまたまある、みたいな。

 

 最初はつまらない自己紹介みたいなことを言いたかっただけなので、話はこのへんにしておく。それにしても、どうもこれだけの文章なのにえらく難産で先が思いやられる。最初ってどうせこんなものだろうか?

アニメ『Free!』を観た感想、イケメン男子高校生たちと自由について

 中江です。2度目の投稿となります。よろしくお願いします。

 

 日曜日の江藤くんの投稿はアニメ映画『秒速5センチメートル』にまつわるお話でしたが、私も今回『Free!』というアニメを取り上げたいと思います。

 

 2013年と2014年に1期と2期がそれぞれ放送された京都アニメーションによるアニメ『Free!』は、現在後者を再編集したものが映画館で上映されていて、2017年現在もなお、根強いファンを抱える人気作品です。(ちなみに今年の夏には再編集された異なるヴァージョンの上映が始まり、その後、新作が公開されるそうです)

 

 このアニメを一言で紹介すると、主人公たちの通う岩鳶高校の水泳部と、その幼馴染の通うライバル的ポジションの鮫柄学園水泳部を舞台に、天才的な泳ぎを見せる男子高校生たちによって繰り広げられる青春の物語、といったところになるでしょうか。たしかに部活ものの御多分にもれず、この作品でも主人公たちは全国大会を目指し、圧倒的成長によって輝かしい結果を残します。しかし、このようなストーリーの紹介では作品のイメージはおおまかに伝えることはできるかもしれませんが、私が『Free!』に実際感じている魅力を伝えることができていないように感じてしまいます。青がとてもキレイ、心理イメージが具現化した描写が迫力がある、筋肉が丁寧に描かれている、キャラクター同士の関係性が好み、など、本当はたくさん好きなところがあるのですが、ひとまず別の角度からの説明が必要なように感じてしまいます。

 

 『Free!』の一つの特徴として、私はキャラクターたちが過去を大きく引きずっていることが挙げられると思っています。そもそも、この物語のメインキャラクターたちには具体的な共通点があります。それは、彼らが小学校時代に同じスイミングスクールに通って優秀な成績を収めながら、話の始まる時点ではみな一様に水泳をやめていたということです。小学校の時にメドレーリレーで優勝したにもかかわらず、仲の良かったチームが離れ離れになり、いつしかあれだけ好きだった競泳を彼らはやめていました。繰り返される回想シーンは彼らにとって小学校での仲間との思い出が、もはや失われてしまったけれども忘れられない大切なものであることを印象付けます。彼らは1期のクライマックスの大会本番の場面で、常識的にもスポーツ青春もののコードでも考えられない行動に出ますが、それは、小学生時代を、もう一度生きなおしている様子のように、私には思えました。また、キャラクターたちは、友人との決裂、留学先での挫折、中学受験とそれに伴う環境の変化、知人の水死など、それぞれにトラウマのようなものを抱えていることもシリーズ全編を通じて、強調されているようにも思いますし、スイミングスクールの子供たちやメインキャラクターの弟や妹が登場するシーンも印象的で、子供時代というものが意識されているように感じます。

 

 また、主人公は2期で大学のスカウトから激しい注目を浴びますが、このことによって、ただ泳ぐことが好きで社会と交わらない営みとして競泳をやっていた主人公は多大なストレスを抱えて、これもまた大会本番にとんでもない行動に出ます。彼は、クールな性格、というよりも、緘黙気味なのではないかと訝りたくなるような態度でいることが多いですが、それは自分以外の世界との距離を測りかねているように見え、具体的にはタイムや勝敗という外的な評価基準にあまり関心がもてません。そんな姿を周りのキャラクターたちは温かく見守り、幼馴染キャラクターの計らいによって、主人公は自分の生きていきたい世界をようやく見つけ、社会のなかで生きていくにあたっての、目標を見つけることができます。

 

 現在、たった一つの社会のなかで生きてはいても、自分だけの世界や過去の世界をも同時に生きていたり、それらの比重が大きくて、現在生きづらくなったりする。それでも、過去を生きなおしたり、生きていきたい世界を見つけることができたりする。その過程で社会通念から大きく外れてしまっても、自分にとって生きている場所からしか生き続けることはできず、それでも結果として未来へむかって生き続けることとなる。自分の言葉でまとめてしまうと、そのようなキャラクターたちの姿に、私は「自由」を感じ、いたく魅力を感じたのだと思います。

 

 最後に、蛇足となりますが、もう一つこの作品から「自由」を感じる表現を述べたいと思います。それは、女性と男性の(肉体に関しての)欲望関係の在り方です。水泳部のマネージャーは、主人公の幼馴染の妹が務めているのですが、ほとんどの話のなかで彼女が部員たちの筋肉美について興奮気味に語るシーンがあります。その一方で、顧問の女教師は元グラビアアイドルであったことが途中発覚するのですが、その以前も以後も、そういった性的消費につながる発言は徹底的に抑圧されています。これは、現在の日本においては一般的な、男性から女性への肉体的な欲望が当然視されながら、女性の欲望については抑圧しているという性的規範の逆と言えると思います。こうした現実の不自由の逆転も、フィクションの感じさせてくれる自由な気がしてなりません。

 

 お読みくださり、ありがとうございました。

 

 

 

 

中江

「同じ類の人」について

 2人目の執筆者の、中江と言います。江藤くんに誘われるかたちで、このブログに参加しました。よろしくお願いします。

 

 江藤くんが記事のなかで「何か同じ類の人と交信がしたかった」と書いていましたが、私もこのブログに参加させてもらうにあたって、同じようなことを思っています。

 

queerweather.hatenablog.c 

 今となっては昔のことですが、初めてSNSのアカウントを作ったとき、「同じ類の人」と出会えるのではないか、と期待を膨らませ、自己紹介をがんばったり、気になる人に絡みにいったりしました。それはあまりに無邪気で、今の私から見ると、思わず失笑してしまうようなものだと思います。当時の私には、同じ趣味を持った人となら、きっと分かり合える、というものすごく幼い考えが根底にありました。好きな作家をとにかく羅列したり(私の場合、ヴァージニア・ウルフ綿矢りさ太宰治坂口安吾、ミシェル・ウェルベックなどなど)、好きなアニメを挙げてみたり(BLEACHカードキャプターさくらアニマル横町デジモンアドベンチャーPSYCHO-PASSおそ松さん)、好きな音楽を表記したり(ボカロ、アニソン、ハロプロ、48G、中島みゆき中森明菜など)、とにかくこんな具合に。

 

 同じ趣味を持つ人が、同じ類の人と、そう簡単に思えないような状況が私にはあるように感じます。もちろん同じ趣味を持っていて、その嗜好に対する感覚を共有できる人とも出会うことはできることと思います。しかし、例えばスポーツや食事などのいわば非言語的コミュニケーションの比重が大きい、いわゆるアウトドア系の趣味に比べ、読書や音楽鑑賞は、言語を通じたコミュニケーションによって積み上げていくものが大きく、なかなか上手くいかないことも多く、たいてい失敗のなかでそのような意識を持っていくことになるように思います。同じ趣向でも通じ合えるわけではない、これは当たり前のことのように今の私には思えますが、はっきり言って、昔の私は単純に同好の士との出会いをソウルメイトとの邂逅くらいに思っていました。「同じ類の人」というのは、「ソウルメイト」ほど大げさな表現ではありませんが、自分と同じようにものを見たり考えたりする人という意味では、近い表現に思います。当時私が趣味を書き連ねたのは、その話がしたい、ということも当然あったはずですが、それ以上に、「同じ類の人」と出会いたかったからでした。

 

 「同じ類の人」と言ったとき、ほかにどのような存在があるでしょうか。昨今話題のセクシュアルマイノリティも一般的に言って「同じ類の人」と括られているように思われます。ある時私もセクシュアリティの問題に還元して、「同じ類の人」を求めたこともありました。LGBTの集いに参加して、レズビアンの女の子、ゲイの男の子や全性愛の子、トランスジェンダーの元男性の女性などと話しました。これも当たり前ですが、肉体への欲望のあり方、関係性への欲望のあり方など、千差万別で、家父長制や規範的ジェンダーへの意識は当事者の間でも大きく異なります。しかし、そういった場では、コミュニケーションによって摩耗する体力が軽減されるように感じました。それは漠然とした「安心」が関係しているように思いますが、欲望の複雑さを学習する機会は保証できても、実際に「同じ類の人」と必ずしも出会える環境ではないようにも感じます。

 

 ほかにも精神疾患というのも、ある種の「同じ類」の旗印たりえるもののように思います。発達障害(ADHDASD、LD)、うつ病境界性人格障害統合失調症など、同じ病を公言した人同士にしかできないコミュニケーションというのはあると思います。ただ、これもそういった立場性に基づく信頼関係こそあれ、そもそもスペクトラム的な精神医学領域で、「同じ」というのは注意しなければならないですし、病人という相互意識に基づくコミュニケーションが制限するものも見過ごせません。

 

 様々な文化、様々な体系があり、様々な言葉はあるが、「同じ類の人」と交信するためには、どうしたらよいのでしょうか。東大卒、文科三類出身というのも、ある意味一つの「同じ」「類」です。そのような場をつくってくれたので、私は江藤くんたちとのブログで記事を書いたのだと思います。江藤くん、誘ってくれて、ありがとうございました。また、ここまでお読みくださった方、ありがとうございました。

 

 最後に、江藤くんに倣って、本からの引用で記事を締めたいと思います。文科三類の先輩である、千葉雅也さんの最新刊からの引用です。

 

「個々人がもつさまざまな非意味的形態への享楽的こだわりが、ユーモアの意味飽和を防ぎ、言語の世界における足場の、いわば『仮固定』を可能にする。」(『勉強の哲学 来たるべきバカのために』、112頁)

 

 今同じ類の場所に立っている人はどんな顔をしているのだろうか?

 

                                中江

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このブログの設立に関して

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 毎日疲れる。大学院を修了し、ふと思い立つように働き始めて二ヶ月。これまでも、アルバイトなどで、大文字の「働くこと」とは無縁ではなかったはずだが、上司の常なる監督のもと朝から晩まで仕事に励むというのは初めての経験だ。だから、相応の疲労がある。

このブログについて

 本当は突然書きたいことを書き始めても良いのだが、トップバッターとなるので、一応このブログを設立する趣旨を書いておこうと思う。

 僕はこのブログの発起人の一人で、江藤という。これはもちろん仮名ではあるが、様々なところでこの仮名を用いているため、自分としてはもう一つの名前のように感じている。

 インターネットで気軽に本名を明かすことができない状況がいま生じていることは、少しでも時勢に関心がある人なら、すぐにわかると思う。やむを得ずこのようにして仮名を使うが、だから適当にやっている、というわけではないことはわかってほしい。

 人文系の大学院を修了し、この春から私立高校で教員として働き始めた。まだ働き始めて二ヶ月だ。特定を恐れるので、詳しくは書かないが、大学院(修士課程)では文学を専攻していた。もちろん修士論文も書いた。しかし努力不足から、文学に関し、「詳しい」「よく知っている」という状態に至ることはできず、未だにわだかまりがある。僕は自分の内的な部分が共鳴するような作品にしか食指を伸ばすことができず、幅広く読むということが難しい人間なのである。

 このブログを作ろうと思うに至ったのは、大変単純な理由からである。何か同じ類の人と交信がしたかった。それだけである。

 「交信」と言ったが、実のところ読まれるだけでもよい。わざわざ連絡をもらう必要はない。そうであったら嬉しいが、自分の理想と、想像されるところの現実にありうる読者像とがないまぜになってできた、誰でもない誰かに対し、届かないかもしれない手紙を書くことができた時点で、ある程度の目的は達成なのだ。その上で、何か「交信」へのきっかけがあれば嬉しい。

 ▽

 実のところ、何年も前から、ウェブを介して、何かを試みようとは思っていた。しかし、するには至らなかった。「うまくできないだろう」という気持ちがあったのである。なぜそう思ったか?答えはその気持ち自体に出ている。つまり、「うまく書こう」としていたからだ。

 しかし、うまく書けるのを待つことができるほど、人生は短いのか?働き始めて、突然そういう焦りにかられたのである。つやつやした肌でちょっかいを出し合う、無邪気な生徒たちに向かって、「うまく書けなくてもいいから、何か書いてほしい」ということを何度か繰り返した、作文の授業のあとに。もしかするとあの言葉は実のところ、自分自身に対して向けられたものだったのかもしれない。

 「東京大学文科3類」に関して

 このブログの説明欄や執筆者のプロフィール欄には「東京大学文科3類」の名前が記載されている。そのことに抵抗感を持つ人はいるだろう。僕もまた、自分だったら、そのような名が冠されたブログの、読者獲得に対して「東大」という名を用いる手つきに嫌悪感を覚えるかもしれない。

 その名を冠するのには二つ理由がある。

 一つ目の理由は、書くものに責任を持つためだ。この名前を出すことで、書く僕はある程度の責任を、否応無く背負わざるを得ない。「あまり適当な言葉の使い方をするわけにはいかない」という責任意識が、ここから生じてくる。

 それは、「うまく書こう」とすることではないか?そう思う人がいるだろう。僕の中では、それは違う。ここで背負うことになる責任意識は、「うまくなくても良いが、しかし一方、ないがしろに書かない」というようなものだ。下手くそで新奇性もないが、とにかくある程度整ってはいる、という状態はある。

 二つ目に、やはりその名前はある種の「臭さ」を持ち、同類を引き付けるように思うからだ。「臭い」と思いながら近づき、このブログを「痛い」と思いながら眺める読者。自分が読者であるとき、僕は彼らの側である。

 以上で、このブログの趣旨説明は終わる。このブログは数人で運営しているのだから、僕(江藤)でない書き手は、また全く異なった気持ちを持って書き込んでいるかもしれない。もちろん、それでよい。

人は自分が望むものしか得られない

 人は自分が望むものしか得られない。望むようにしか生きられない。その通りだと思う。だからこそ、何を望むか、いかに望むかが重要だ。望んでいるものに関して、本当にそれを望んでいるのか、という問いかけが必要になる。社会的な規範をそのまま内面化し、苦労の末に望んだものを得たのち、それが望んだものではなかったと気づくのは、辛いからだ。

 しかし、現実には、そのようなケースはあまりないと考えられる。望む過程で、人々は、自分が望んでいるものこそ、まさに価値があるものなのだ、という風に、自分の中で補正し、それが本当は望んだものではなかったかもしれない、という問いを抑圧してしまうからだ。そうして、時折違和感を抱きつつも、概ね幸せそうに暮らす。それが幸せだということに、彼らの中でなっているのである。

 こういった「考えない知恵」は、それはそれで見事だなと思う。大学入学当時の僕だったら、非難の眼差しを向けたかもしれない。けれどこれほどに生きづらい社会の中で、無力な個々人が自分の領域を必死で守る、その機制を非難することはできない。

 ▽

 一方で、僕は「これが本当に望むものなのか?」と、「そうだとして、それをどのように望めばいいのか?」と、問いながら日々を暮らす側である。その日々は幸せなのかと言われたら、「いや、どうだろう」と思う。はっきり言ってしまえば、少なくとも幸せではない。何かの基準にしがみつくわけではないから、とても不幸なわけでもない。時折所在無さに打ちひしがれ、時折その根無し草的感覚を気楽に思う。

 しかし僕は、「望むものというのは、本当にはない、生きることは、ただ、どうしようもなく日々、すでに生きているのであって、それに全く意味はない」というほどにしらけてはいない。それもその通りだと思いつつ、一方で、どこかに僕の欲する理想状態はあるのだろうと思っている。ない可能性も十分あるのだが、僕はあるという立場に立っている。だからこそ僕は、このブログを立ち上げたりするのだ。

 僕にとって、自分が望むものが何かはあくまで不明瞭だが、それがあるという確信だけを持ちつつ、書くことを通して手探りすることで、何かを掴むことはあるのだろうと思う。とにかく、考え続け、書き続けることが重要だ。そしてもちろん、考えている・書いている限り、ともかくは生き続けるのである。

 書くという試みが、読み手を想定せずにあり得ない以上、手探りとしての書くことを通して出来上がる文章が何かを掴むとしたら、それは適切な読者に他ならない。読まれることは書き続ける理由を構成する。書き続けている限り、死なないのなら、読者が読むことは、書き手を生かすことである。

おわりに

 僕も読むことを続け、誰かを生かしつつ、一方で書くことで、誰かに生かされようと思う。もしかしたら、そのような関係性に参与すること自体が、僕が求めるものなのかもしれない。あまりにも読むこと、書くことがないがしろになっている気がする。そして、僕自身もともすればそのことを、あまりにもないがしろにしているのだ。時間がないから。

 −−−本当に?

 ということで、このブログは痛い元文学徒ばりに、村上春樹の最新作からの引用で終わろうと思う。

 

「時間が奪っていくものもあれば、時間が与えてくれるものもある。時間を味方につけることが大事な仕事になる」(『騎士団長殺し』、23頁)

 

「時間を味方につける」

 −−−でも、どうやって?

 

                                    江藤