On the Homefront

東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

愚痴はダメ?

 先日適当な記事を書いてしまってから、なんで愚痴っぽくなることがダメなんだ?と自分で自分にツッコミを入れる羽目になった。愚痴っぽくなるのは良くないと私が思った理由は簡単で、そういうことはあまり人に聞かせるべきことではない……ということになっている、と思ったから。愚痴を言っても良いことはない、聞かされる方も嫌なものだ、みたいな通念が頭にあったからそう書いてしまったのだと思う。

 

 実際のところ、私はけっこう他人の愚痴を聞くのが好きだ。愚痴というか、他人の怒りとか悩みとか、そういうマイナスの心情を傾聴することが嫌だとは思わない。

 もちろん、怒りを直接ぶつけられたい、という意味ではない。そうじゃなくて、例えば激しく怒っていたりどうしようもなく落ち込んでいたりするとき、どうしてそう感じたのか、何に対してそう思ったのか、そういう感情の在り方について聞かされるのが、好きだというとちょっと語弊があるかもしれないが、こう言っていいならとても勉強になる。怒るってかなり強烈な感情だし、どうしてこの人はそこに怒りを感じているんだろう、と探ることは、その人のことをよく知りたいと思ったら通らずに済む道ではないと思う。そういう意味で、愚痴を聞くのが好きというか、人が怒っていることについて聞いて考えるのが好きだと感じるのは、そんなに珍しいことではないのではないか。

 問題なのは愚痴ったり怒ったりすることそのものではなくて、それをどこに向けてどう表明するか、というところにあるということを区別しなければいけない。 

 

 ちょっと話は飛ぶけれど、最近何か炎上案件があったときなど、怒りを表明した人に対してモンスタークレーマーだwというようにケチをつけてくる外野を見てはうんざりしている。そんなことに文句つけてんの?と言って、怒っている人を戯画化するようなノリ。反論するわけでもないのにわざわざ他人の怒りを矮小化して封殺してくる態度がイヤ。

 だいたいそういうのって、冷笑的な態度を取れたもん勝ち、みたいな姿勢と表裏一体でやってくる。愚痴っぽくなるのがいけない、という考えもそこに通じていると思う。冷笑的な態度を取れたら勝ち、怒った方が負け、文句は言うやつが悪い、だから愚痴を言ってはいけない、大人しくイエスマンでいるのが正しい在り方なのだ、というように。

 

 悪いのは怒りに任せて他人を攻撃することなのであって、怒っているという感情を理性的に表明することは十分に可能だし、それは非難されるいわれのないことだ。現に私は人が怒っている話を聞くのが好きだし、それを聞いて共感できたり、人の振り見て我が振り直せと反省できたりすることもあるのだから、あながち単なる覗き趣味というわけでもない。

 別に、たくさん怒ろう!というわけではないが、愚痴っぽくなるのが良くないと過剰に抑制してしまうこともない。もっとふつーに、嫌だと思ったら愚痴る、でいいんだよな……。まあ、たまには好きなものについて書きたいという気持ちはそれはそれで本当なのだけれど……

ためしに読書記録〜読書の秋とわからない季節感〜

めちゃくちゃサボってました(すみません)

 

(最後に投稿したとき、めちゃくちゃ暑かったときの話をしたのに信じられないくらい寒くなってしまいましたね……)

 

インターネットに何か投稿ないし送信するとき、後から見たときに、なんかそこに等身大の自分の石像のようなものがグロテスクなほど強固に存在していて、一応自分の顔が、エクスキューズを口にできないその顔がしきりに瞳で訴えてくるようなさまと向き合わなければならないような気がして、(あるいはせっかくなのだからすごいログを残すべきなのだろうという、功名心なのか何もしないための言い訳なのか判然としないものがあり)それを抱えているような気がする。その姿が自分にしか見えないのならば、幻視と言っても医学上問題なかろうし、操作的にはひょっとすると守護霊じみたマスコットキャラクターとして捉えた方が有効かもしれない。登場人物たちが敵の変態キャラによって次々と石像にされてしまう回はトラウマだったけど、アニメの主人公は謎の精霊と数値化不能の絆で悪を倒すのだ。よくわからないですけど、今日は書いてみようと思った。

 

何も言ってないのとほぼ同じかも知らないですが、やはり小説を読まなかったり読めなかったりする時期はあり、私は江藤くんほど読書してないという自己評価なのですが、最近やや読んでます。

 

直近で読んだポール・オースターの『ムーンパレス』は、声優の番組で知った本だった。斉藤壮馬さんという声優で、この方は早稲田大学の文学部を出ていて、いわゆるアニメファンの間ではアイドル的人気も誇る男性声優だ。声優のラジオで「柴田元幸先生が訳されてて〜」とか聞けるのは、不思議なもので、妙に気分が高揚するので耳が幸せということなのかもしれない。

 

ポール・オースターは、周囲に何人かいる村上春樹好きの知人に勧められたことがあったような気がするし、自然に考えればあっただろうが、読んだことがなかった。個人的にアメリカ人の作家でハマった人がほとんどいなかったというのがある気がする。フォークナーやヘミングウェイを何冊か読んだことはあったけれど、あったのは確かだと思うけれど、ただスペインの牛追い祭りとか広漠たる森とか漠然としたイメージが思い出されるだけで、情緒的には残っている印象がない。サリンジャーは『フラニーとゾーイ』も『ナインストーリーズ』も静かに熱狂して面白く読んだ覚えがあるが、勝手なことに自分の中でサリンジャーは米文学とカテゴライズされてない。そういえばフィッツジェラルドの『グレートギャツビー』は高校の時に読んだな。

 

とにかく、いい機会にと読んでみたので、感想を書きたいと思うのですが、前置きの長さに比して、感想、というか印象は短すぎるかもしれません。

 

まず今回の読書は、サリンジャーとかを読んだときのように啓示を受け取る感受性で読んだわけではなく恐らく、ちょっと気になっていたアメリカ文学、というか世界文学をちょっと気になる声優が紹介してたし、読もうという気分でした。フィクションの世界の光を浴びる、言葉の海で泳ぐという感じではなく、現実世界との距離を掴む読書というかたちというか。実際お湯を沸かしたりアプリゲームでオートプレイしながらだったり実際きわめて不真面目な読書態度だったので、叱られても文句言えないでしょう。

 

さて感想ですが、斉藤壮馬さんが言っていたように読みやすい小説でした。抽象的にいうと、人間が苦しんだり恋したり冒険したり常識外れの行動をしたり自由を追求したりする様子が具体的に早い展開で描かれていて飽きずに読めます。もう少し具体的に言うと、特に前半部の退廃したインテリの生活日記と形容したくなるストーリーは、一部のUTクラスタ(ギャグ的な態度でツイートを投稿し人気を誇る東大生のツイッターユーザー層のこと)を思わせます。主人公の自分を世界史のなかに位置づけて生活の出来事を思弁的に綴るようすは笑えますし、展開も深刻で、御都合主義的ではないように感じられて、最後まで一気に読めるような感じでした。

 

少なくとも今の私は読書体験のなかで、その周縁的なものを重視しているのかもしれない、なんの根拠もありませんが、昔はサリンジャーを読んだときはそんなことはなかったような気がする。今回は読んでいて、斉藤壮馬さんはどう読むんだろうと気になりながら読んでいた。だからだと思うが、作中に頭がおかしくなって子供の名前すら分からなくなってしまった母親が登場するのですが、ちょうどちょっと前に読み返した種村有菜さんの漫画作品『紳士同盟†』(集英社のりぼんで連載されていた少女漫画)にそんな母親が登場して、私が斉藤壮馬さんを知ったのは種村有菜さんがキャラクターデザインを担当するアイドリッシュセブンというアプリゲームなので、そのようなかたちで、私は現実世界で読書体験をしたということになる。

雨の日の投票所へ行ってきます

 数日前から小説が全く読めなくなってしまっているのだけど、なぜかといえば、実社会での話題に感心が向いているからだ。選挙が気になっているのである。正確にいえば、選挙自体の結果というよりは、選挙に際して噴出する様々な議論が気になっているのだ。それで1日の随分長い時間をツイッターに費やしてしまっている。

 問題は、そういったツイッターへの滞留が特に面白くないことだ。

 

 投票に行くべきだ派と別に棄権してもよいのだ派の議論など、よくもこんな話題でいつまでもペチャクチャできるなと逆に感心してしまう。「自分の未来を白紙委任しないために、投票に行くべきだ」という議論が僕はあまり好きになれない。お前の政治的スタンスを決定せよ、と迫られているような気分になるからだ。

 

 当たり前だが、政治的スタンスなどそうクリアカットに決められるものではない。今回立憲民主党に入れたから、今後も立憲民主党を支持するとは限らないし、立憲民主党の全ての政策を支持していることにはならない。自民党の場合も同様だ。しかし、投票は党の名前や、党の名前を背負った個人に対して行われなければならない。僕は投票した瞬間に自分を**党の支持者として自己を位置付けざるを得ない。以降自分の投票した政党を批判する言説を見ると後ろめたくなる

 

 投票先の政党とそこに投票した自己を同じ側としてくくるのはいかにも浅薄な見方のように感じられるかもしれないが、自分の一票に責任をもつとはそのようなことと無縁ではないと思う

 

 また、投票にいくべきだ論が好きになれないもう一つの理由として、そう呼びかける人間の大部分が民主主義の活性化を意図して言っているわけではないと考えられる点が挙げられる。これまで棄権してきた層が投票に行くようになった結果として、自分の支持しない政党の得票数が大幅に増えることが予想されるとしたら投票を呼びかけたりはしないだろうと推測されるからだ。

 

 従ってややうんざりとしながら、しかしそれでも気になってしまうので選挙TLをさかんに人差し指で引っ張っては更新している。これから私は投票に行くのだが、この雨の中、なんだかしんどいなと思う。

好きな季節

 放っておくと愚痴っぽくなるので意識的に好きなものの話を書くことにする。

 突然季節が変わって、肌が寒さを感じ取った瞬間、反射的に心が高揚する。10月くらいの空気が一年で一番好きなんだよなあ。夏が遠ざかっていくのを感じられるのが好きだ。

 

 まあやっぱり暑いのが苦手だからというのは大きい。やっと汗の季節から解放されると思うと、それだけで十分好きになるに足るすがすがしさなのだ。

 あるいはもっと積極的に、冬が好きだから。年賀状書いたり鍋食べたりスケートしたり、冬にまつわるもののことを考えるとなんとなく心が踊る。でもいざ冬になると、やはり寒いし、雪も大変だし、何より冬が来たということは、もうすぐ冬が終わってしまうということだ。何事でもそうなのだが、楽しいことは「始まる前」が一番楽しい。昔から、週末の休日よりも木曜日くらいの方がワクワクすると思うような子供だった。だから、日暮れがみるみる早くなり、冬の訪れを感じていられるこの季節が好きなのかもしれない。

 10月には具体的に楽しかった記憶があるからかもしれない。中学生のころ、10月といえば文化祭のシーズンだった。今思えば……と、振り返るほど昔になってしまったのが信じられないんだけど、私にとってはあれほど楽しい時期はそうそうなかった。学校中どこに行ってもやるべきことがあったし、どれも自分がやりたくてやっていることばかりだった。

 それほど中学校に楽しい思い出があったわけではないと思っていたのだが、実際に振り返ろうとしてみると、高校や大学をまるで通り越して中学のことばかり思い出してしまうのが不思議だ。文化祭の準備が終わってすっかり真っ暗になった通学路で、素肌を出しているとちょっと寒い、でも動き回って温まった体にはそれがかえってちょうどいい、10月の帰り道。そういう肌の感じが、中学生のときの楽しかった記憶と一直線に紐付いているから、この季節が好きなのかもしれない。

 

 どの季節が好きかなんて、実は20年くらい生きてきてやっと答えられるようになったばかりなのだ。一年をいくつか束にして俯瞰して見ることができなければ、季節に評価も与えようがない。かつて季節はそれぞれ一つずつやってくるものだった。もちろん夏とか冬がどんなもので、どのくらいのペースで回ってくるか、ということは理屈の上では分かっていたわけだが、実際に認識している季節は、小学1年の夏休み、6年の正月、みたいにそれぞれ個別の事象だった。抽象的な概念としての季節を、毎年の実感と結びつけて認識できるようになったのは、つい最近やっとのことだと思う。

 で、そう感じられるようになって今、私は10月の空気が一年で一番好きだ、という結論に達したところなのだ。それでせっかく楽しみにしていた10月なのに、今年はちょっといきなり気温が下がりすぎて、あの好きな空気をあまり感じられない。どうもやっぱり愚痴っぽくなってしまうな。

国分拓『ヤノマミ』を読んだ

  今日も読んだ本の紹介。タイトルにある『ヤノマミ』という本は国分拓というNHKのディレクターが書いたアマゾンの奥地にいる原住民族への取材体験記である。もともとはその取材が元になってできたドキュメンタリーの方が先に世に出て、話題になったため、取材体験記が出版されたということらしい。哲学科出身の友人が手に取っていたのを見て、気になって読んで見た。

ヤノマミ (新潮文庫)

ヤノマミ (新潮文庫)

 

 

「少しずつ周りの空気が濃密になっていく」

  この本のアマゾンのページの商品紹介では「読売新聞 朝刊」 2010/5/30号に河合香織氏がよせたコメントが引かれている。

 

「映像よりもむしろ深く鋭くヤノマミに迫っている。読み進むにつれて、少しずつ周りの空気が濃密になっていくかのようだ。」

 

 このコメントは大変良いコメントと思う。まさにその通り、これを通勤途上の京浜東北線で読んでいたとき、私は自分の周囲の空気が固まって行くような緊張感を覚えた。日常生活の中で自明視している、私の結ぶ世界との関係のあり方とは、全く異なる形の世界との関係のあり方があるのだなと目を開かされるような気分だった。

 嬰児殺しの場面に注目

 作中で一番緊張感が高まるのは、嬰児殺しの場面だろう。ヤノマミ族の価値観では、生まれてきた子供は精霊であり、母親がそれを育てる決意をして抱き上げるまでは人間ではないということになっている。

 子供を精霊のまま神に返すか、人間として育てるか、その決定は母親に委ねられており、前者を選択した場合、母自身の手でそれを殺したのち、遺体をシロアリの巣の中に入れアリ達に食べられるがままにすることになる。

 出産直後の女性(年齢的には14歳くらい)が産んだばかりの子供を精霊のまま返す選択をし、実行に移す際、作者国分さんはその場面からどうしても目をそらそうとしてしまう。直視しようとしながら、一方で見るにたえないのである。対照的に、国分さんと行動を共にしていたカメラマンはあくまでそれをカメラにおさめようとする。

 なぜ私は仕事に向かうのだろう?という気分になる

 この辺りの、私たちが前提としている文化的規範の底を抜いてしまうような出来事に相対した時の二人の対照的な行動二つが、二つともあわさって、読み手である私の中の人間性をじくじくと刺激してくる気がする。なぜ私はこうしてスーツを着て、1時間程度かけて会社に通い、朝から晩まで働いているのだろう?と問い直したくなる気分になる。自分が意識的・無意識的に則っているルールが剥ぎ取られた地点がそこに描かれているからだ。

 

 文化人類学的な本は最近読んでいなかったが、最後に読んだレヴィ=ストロースの『野生の思考』は、そう言えばえらく面白かったな、と思い出す。

 

野生の思考

野生の思考

 

  ほっとくと小説ばかり読んでしまう私だが、もっと異なる分野にも手を広げたいと思う、が、もう若くはないし、読める本にも限界がある…。この限界を持たざるを得ない悲哀とどう付き合うかが最近の課題。

 

  

 

『窯変 源氏物語』と、平凡な大学院生から見た橋本治

 橋本治『窯変 源氏物語』を読んでいる。

 

窯変 源氏物語〈1〉 (中公文庫)

窯変 源氏物語〈1〉 (中公文庫)

 

 

 『窯変 源氏物語』は橋本治による、『源氏物語』という「原作に極力忠実であろうとする創作」である。

 この小説の中では、語り手=光源氏が自分のことを「私」と名指すため、『源氏物語』が、あたかも源氏の書いた私小説のような様相を呈している

 無論私小説はこの時代には存在しなかったのだから、このような私小説らしさは橋本治の創作によるものだろう。いずれにせよ、この形式のせいか、近現代小説に慣れている私に、橋本の源氏物語は大変読みやすい。

 

 とくに感心させられたのは、「帚木」という章において男性たちの間で繰り広げられた女性のあり方に関するやりとりである。

 例えば一部を引いてみよう。

 

「女の、”これなら大丈夫だろう”というようなのはほとんどいないんだっていうことが、最近になってようやく分かってきましたよ」

 問題は男にあるのではなく女の方で、しかもそれはどれもこれも似たりよったりの顔を持ち、だからこそ「色んなものがある」としか言いようがない−−−頭の中将にとって最大の問題とは、自分がどうあるかではなく、この世にはろくな女がいないという、そのことだった。

 私が捕まえようとして、何をどう捕まえてよいのかよく分からなかった”夜の論理”というものは、いたって簡単なものだった。

 私はまだ知らなかったのだ。男には恥部など存在しないということが、夜の論理を貫く最大の鉄則であるということを。十七歳の私は未だ男であることに不慣れで、それ故に未知の不安を”恥部”として意識していた。

 だから私はその夜、女達の品定めをする男達が恥部というものを意識しないでいる不思議な生き物だということを、初めて知ることになる−−−。

橋本治『窯変 源氏物語』第1巻、中央公論社、1991年、85-86頁)

 

 「帚木」では、このように、中世を生きる貴族の男たちの、女のあり方への洞察と、その男たちの傲慢さを抉り出して見せる光源氏の心内描写とが繰りかえされる。そして、上引用部にあらわれているように、光源氏=語り手は大人の男達のやりとりに参与しながら、内省を深めていくことで、「男」としての自己のあり方を定め、それに向けて自己を方向づけて行く。

 

 このような光源氏=語り手のさまは近代小説に馴致された私の目から見ても十分に面白い。人間性というのは千年前でもそう変わらないものなのだなとはっとさせられる(原文を確認していないので、私が面白いと思う部分は、すべて橋本治による「創作」なのかもしれないが…)。


 また同時に、「帚木」の時点では揺れ動くアイデンティティを持った思春期の少年である光源氏が、これから先10巻以上にもわたる物語において、青年期・壮年期・老年期と順に通過する中でどのような変容を迎え、どのように生きていくのかがとても気になる。
 

橋本治という人

 さて、ここで、話を橋本治という作家本人に移してみよう。数年前から、橋本治という人物が私には気になっている。

 橋本治というのは誠に変わった人である。まず文壇の中での立ち位置が変わっている。本人の言によれば、橋本が書いた本は小説・評論・エッセイと多岐にわたり、その数180点を超えるらしいが、特定の著作が話題に上らない。


 橋本は評論の分野では小林秀雄賞など権威のある賞を受賞しており、小説も若干説教くさい(後述するが、これは厳密には橋本なりのサービス精神なのだろう)が、とにかく読ませる。実力は十分にある書き手である。

 かつまた、現在進行形で盛んに文芸誌に小説を発表したり、新書を書いたりしている。それも、かなり盛んにしているのだ。例えば最近では『知性の顛覆』が出版されたし、雑誌『新潮』10月号では「草薙の剣」という小説を発表している。

 

  

新潮 2017年 10 月号

新潮 2017年 10 月号

 

 

 橋本は決して終わってしまった昔の作家というわけではないことがここからわかる。

 にも関わらず、文芸の世界でも、評論の世界でも、橋本治が話題に上ることは少ない。


 なぜなのだろうか。
 その第一の理由は、橋本という人間の区分けしがたさにあるのだろう。橋本は作家でもエッセイストでも評論家でもあり、そのどれか一つに彼を還元して語ることは出来ない。いうなれば彼は物書きであり、それ以上でも以下でもない。だから、小説を論じる文脈でも、評論について語る文脈でも、橋本を登場させづらいのだ。橋本を登場させると、話が小説や評論といった特定の分野におさまりにくくなる。


 第二の理由は、彼の書くものの性質による。たとえば橋本の評論は、彼自身が述べるように、とりとめのなさを孕む。まとまっていないような印象がある。しかし、一方で全体に一本の筋が通っていないのかといわれれば、筋がないわけではない。
 なぜそのような文章になるのだろうか。これもまた、評論家でありエッセイストでもある橋本の性質によるのであるのだろうし、橋本が何本も並行し、多くの執筆活動を行っているが故のものともいえるだろう。議論を精緻に構造化するには、橋本のようなスタイルでは、時間が足りない。それに、橋本の饒舌でわき道にそれる語り口のよさは、それでは発揮されないのではないかと思われる。


 今私が「まとまっていないような印象がある」と評したため、橋本の著作がわかりにくいように想像する人もいるかもしれない。しかし特にそういうわけではない。鋭敏かつ明快な部分は多くある。それと同じくらい、明瞭にいえるはずなのに何かに遠慮し、韜晦を含む部分もある。
 橋本は自分が商売をやる町人の息子であるから、どうしても多くの人にサービス精神を発揮してしまうと自著で述べている。また、これだけ多くの作品を発表している書き手の言葉とは思えないが、注目されすぎ、偉くなりすぎることで目をつけられることを恐れてもいるらしい。このような、外見から見える派手な仕事ぶりの一方で存在する世間への繊細な気回しが、橋本の単にわかりやすいというわけではない部分(わかりづらいというわけではない)を構成しているのだろう。

 

 この橋本が、老年にいたるまで毎月の返済額が100万円にも上るような巨大な借金をバブル期に作り、それを抱えながら仕事をしていたという事実は、意外といえば意外な話だった。橋本の過剰なほどの多作は、経済的な要請に駆られてのものだったのか…となにやら腑に落ちるような気分になったりもする。
 しかし橋本自身の言を信じるのなら、これは事態が逆なのであって、借金を抱えてしまったから否応無くたくさんのものを書かなければならなくなったというよりは、自分はたくさんのものを書けるし書き続けていけるという確信があったからこそ、借金も出来たということなのらしい。大変羨ましい。書いているとすぐに自分の底が見えてしまう私である。


  

 

大急ぎロシア観光 その4:本屋と文房具

前:大急ぎロシア観光 その3:チャイコフスキーの家博物館 - On the Homefront


 モスクワ滞在最後の半日は、一人で街をぶらぶら歩くことにした。楽しみにしていたのはなんといってもДом книги(ドム・クニーギ)、「本の家」……要するにでっかい本屋だ。ロシア語の授業で先生に紹介されて、ずっと行ってみたいと思っていたのだ。なーんて気取ったところでロシア語の本なんか読めやしないんだけどさ。

 新アルバート通りという大きな通り沿いにある大きな店舗で、「赤の広場」から歩いても行ける。地図に弱い自分でも迷わずたどり着けたが、道路を渡るのに地下道の入り口を探さなければならなかった。この日は雪がチラついていて、チラつくだけならいいんだがだんだん吹雪いてきたりもして、季節は完全に冬。上着のフードだけで雪を凌ぐには歩き続けるのがつらくなってきたころに、地下に潜れるのがちょっとありがたかった。

 

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 ドムクニーギ、2階建ての明るい店内はちょっとしたショッピングモールのような広さ。1階には本だけでなくおもちゃやインテリアやお土産売り場まであり、もうこれは何時間ここにいても飽きないなと一目見て思う。とりあえず2階の本売り場から物色してみることに。

 キリル文字の読解力を総動員してなんとかタイトルを読み解き、本棚を眺めているだけでもこれが十分面白い観光地なのだ。例えば音楽書にしても、さすがにチャイコフスキーは人気だなとか、プロコフィエフも負けてないなとか、あとはやっぱりバッハ、モーツァルトベートーヴェンは外せないんだなーとか、それなりに発見があるものだ。もちろん中身が読めればそれに越したことはないんだが……。文字をを追うのに疲れてきたあたりで、装丁の可愛らしさに心ひかれて、ピアノでかんたんに弾ける子供向けの『展覧会の絵』の楽譜を買った。五線譜は世界共通だからね。

 子供向けといえば、話は逸れるが、アメコミヒーローやディズニーキャラクターはロシアでも定番らしく、コミックやおもちゃがあちこちで売られていた。それにしても、この国に来てからというものマンガをほとんど見かけない。というのはコミックブックのことではなく、マンガ的なイラストが全然ないのだ。街中の広告もだいたい文字と写真ばかりで、「ゆるキャラ」のようなイラストすらほとんどお目にかからない。当然、日本のアニメ絵のようなイラストはどこにもない。児童書も何冊か見たが、軒並み挿絵が教科書っぽかった。まあこれはロシアの特徴というより、日本の方が特殊なのだろうけれども。ピカチュウハローキティはだいたいどこのお土産屋にもいて、その人気のほどに驚かされた。

 

 話を本屋に戻すと、その後あちこち見て回った末に、読めやしないと思っていたのに結局ロシア語の本を買ってしまった。『日本語ぺらぺらの為の二つの語根からなる言葉』……ロシア語話者向けの日本語学習のテキストなんだが、「ぜんぜん」とか「どきどき」とか「ニャーニャー」とかそんな語彙ばかり集めて解説した本で、なんかちょっとワクワク、ニヤニヤしてしまうじゃないですか。

 この本はそうでもなかったが、日本語の語学書の表紙はだいたい富士山に桜に真っ赤な鳥居とかそんな感じで、あまりにもいかにもいかにもなのでちょっと面白かった。まあ、日本のロシア語のテキストもだいたいマトリョーシカなので、同じことなのだ。

 

 白状すると、ここへ来た一番の目的は本よりも文房具だった。いっぱしの文具マニアとして、お土産グッズではなくロシア人が日常的に使っている文房具をこそ見てみたいのだ。日本でも輸入文具を扱う店はあちこちにあるが、ロシアのメーカーってまるで聞いたことがない。これはもう、現地調査するしかないというわけです。

 結論。1階の文具売り場に並んでいたボールペンやシャープペンシルの類は、ほとんど外国メーカーであった。外国というか、日本メーカーのペン。それもよく見慣れたパイロット、ぺんてる三菱鉛筆、ゼブラ、などなど。マジかー!!

 日本で買えば100円か200円くらいの、一番シンプルな事務用筆記用具といったタイプのペンがざくざく並んでいるのだった。値段は200ルーブル程度(1ルーブルがだいたい2円くらい)と若干割高だったものの、製品自体は日本で手に入るものと何一つ変わらない。多少ラインナップは古かったかもしれないが、そのくらいだ。

 もちろん日本メーカーのものだけではなく、スペインのMILANやフランスのBIC、ドイツのSTAEDTLERなどヨーロッパのおなじみのメーカーもたくさんそろっていた。しかしいずれにせよ日本でもよく見かける製品ばかりだ。珍しかったのはMade in Turkeyと書かれた派手な鉛筆くらいか。ロシア国産のペンなどは、探した限り一つも見つけられなかった。マジかー。拍子抜けといえばそうではあるが、日本のそんじょそこらの文具売り場よりも商品の数はずっと豊富で、海外にいることも半ば忘れて文具漁りに没頭してしまった。

 

 「書く」ものに関してはそんなところだったが、「書かれる」ものの方は期待通り、日本では売っていないようなノートやメモや手帳にたっぷりお目にかかることができた。メイドインロシア製品もたくさんあって、デザインもかわいいものばかりで心が躍る。キリル文字のキャラクターが描かれたノートなんか、現地の子供向け学用品なのかもしれないが、値段も手頃なので目移りしてしまった。いかにもロシアロシアしていなくてロシアっぽく、ちょっと見かけないような文房具が手に入るとなると、ふつうにお土産としても重宝しそうだなあ……と思いつつ、つい自分へのお土産ばかり買い込んでしまう。ドムクニーギ、やっぱり何時間いても飽きないお店でした。

 

 大急ぎロシア旅行、まだつづきます。