On the Homefront

東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

大急ぎロシア観光 その7:快晴のネヴァ川にて

前:大急ぎロシア観光 その6:偉大なる都市への讃歌 - On the Homefront

 

 後になってガイドさんに聞いた話なのだけれど、サンクトペテルブルクの冬は本当に日照時間が少なく、3月でも雲一つない快晴なんてほとんど見られないのだそうだ。にもかかわらず、私が訪れたちょうどその日がまさにそのレアケースで、2日間ずっと青空の隠れる瞬間ののないほど好天に恵まれた。結果的に、本当にこれ以上ない最高のタイミングでペテルブルクに来たものだなあと思う。

 

 ただし、晴れていた分気温はかなり冷え込んだ。顔に刺さる風は完全に冬の空気。市内のあちこちで眺めるネヴァ川には、ところどころ氷が解け残っている……のだが、その川岸にはなんと半裸で日光浴をしている人の姿が!!

 とにかく曇りのペテルブルクでは日光が何よりも貴重なので、人々は少しでも日の出ているタイミングを逃すまいと、寒さをものともせず日光浴に励むのだそうだ。コートや帽子にガッチリ身を包んだ通行人のほんの数十メートル先で、かすかな日光を一差し残らず身に受けるべく肌をさらす若者たち。その光景は慣れているであろう現地の人にしてもちょっと異様に思えるらしくて、下手したらそのへんの歴史的建造物よりも見応えのある観光スポット(?)になっていた。

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  聞くところによると夏でもあえて日向を選んで歩くほどらしく、そこには太陽への執着というか、情熱というか、極東の人間には想像できない気迫みたいなものすらあるような気がした。

 

 冬があんまり長くて暗いので、ペテルブルクの人間は冬の間は笑うのも嫌になる、とガイドさんは言う。ただ私が見た限りでは、こちらの方がモスクワよりもずっと開放的でフレンドリーな感じがした。京都の観光地みたいなもので、ヨソの人間には愛想良くする訓練ができているんだろうか。

 少なくともサンクトペテルブルクは観光客慣れした街だった。モスクワでは全部ロシア語だったが、ここならアジア人と見ると英語で話しかけてくれる。地下鉄にもキリル文字だけでなくラテン文字の標示があって分かりやすい。現地に到着した瞬間から、まず街並みの雰囲気が全然違う。

 乱暴にいうと、モスクワはソ連、ペテルブルクはヨーロッパ。歴史的な背景を考えたらそう感じられるのも宜なるかなではあるのだけれど、たかだか2日間の滞在では、実際に行くだけかえって先入観が強化される結果になってしまったのかもしれない。つづく。

こじつける理由が欲しいだけ

要らない遠慮をして楽しみを楽しめなくなるのは嫌だから、日付にはあまり特別な意味を持たせたくない。ただ日付が同じだからというだけで何の生産性もない感傷に浸ることは一番しょうがないことだと思うのだけれど、それでも、私はいまだに何かにつけてこの日を思い出しては悲しくなってしまうし、そのことについて書くなら今日だろうなと思ったので書く。

 

私の身の回りに限って言えば、具体的な被害は何もなかった。ちょっと停電になって、しばらく交通が止まって不便をした、その程度。家具一つ倒れもしていない。

そのときのことは日記にずいぶん詳しく書いてある。書いて以来ほとんど読み返すこともしなかったけれど、読めば一文一文嫌になるほど思い出せる。何しろ日記を書くくらいしかできることがなかったのだ。どこにも行けなかったし手も足も出なかった。できれば書きたくなかったのもよく覚えているけれど、黙っていたら本当に他にやることが何もなかったから、今この気持ちを記録しなくてなんのための日記かと思って、書きたくないけど書いた。

 

その年その日はいい日になるはずだったんだ。数年に一度レベルの楽しみに浸れるはずで、そのつもりでずうっと待ってた日だったのに、その楽しみは、突然起こったことの重大さの前に、そのくらいつぶれても仕方ないというようなちっぽけなことになってしまった。 

 

言うなれば「もっとつらい人はいっぱいいる」それがどうしようもなくよく分かるから二重につらい。自分が特別悲しい目に遭ったというわけじゃないし、でも私にとってはずっと心待ちにしていた喜びを目の前で取り上げられて絶望のどん底みたいな気分で、自分の身に起こったことであんなに悲しいことだってそうそうあるものじゃないのに、それですら世の中見渡してみればちっとも大した悲しみとは思えなくて、こんなことで悲しんでいる自分がますます嫌になる…… 

改めて書くと本当に何くだらないことでぐちぐち言っているんだとしか思えなくなってしまうね。それでもこうして書きたくなってしまうほど、私にとっては大事な楽しみをなくしてしまったのだ。あれから7年間うれしかったことなんて何もなかったような気さえする。そう思うくらい、喜びをあのときに喜び残してきてしまった。個人的な悲しみでさえ荷が重すぎて、世の中にどんな悲しみがあるかとか、もっとどんな問題があるのかということなんか、とても引き受けることができなくて、目を逸らしたまま今まで来てしまった。

あの3月以来、私は明確に刹那主義的な考え方に寄りがちになった。いつかやろう後で楽しもうなんて先延ばしにしていたら、本当に、いつ何もかもパーになるか分かったもんじゃない。

 

こんなことを書いたとして今さらつまらない思い出語りでしかないし、誰かに何かを分かってもらおうという気も、伝えようという気すらないかもしれない。誰かが悪かったわけじゃないし私はただ悲しい。その悲しさは時の流れに反してびっくりするほど変わっていないのだけど、ただこうやって格好つけて文章にしてやったら、形にならない気持ちだけくすぶらせているよりは、ゼロじゃないだけマシかなと思った、それだけだ。

突発的文具レビュー その1

中高生のときはとにかくシャーペンが好きでしょうがなくて、とにかく手に入る限りのシャーペンを買い集めることに命をかけていた。今でもシャーペンに限らず文房具めっちゃ好きなんですが、集め始めてそこそこの年月になるし、せっかくなので文具レビューを書いてみることにする。レビューというか、戦友を紹介する、くらいの気持ちです。

 

 

フレフレシェーカー(パイロット、1000円+税)

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最初に紹介するならこいつしかいない。初めて1000円を超える文房具に手を出したのがこれだ。完全に一目惚れだった。いつも行くシャーペン売り場の上の方の棚に置いてあって、自分には縁のない価格帯の商品だと思ってずっとスルーしていた。それをあるときなぜかよく見てみる気になって、目に入った瞬間から心を奪われてしまった。デザインがいいのだ。

ペンの重量感とか重心の位置を意識するようになったのは多分このペンを使い始めてからだったと思う。その名の通りの振り子式で、ほんの少し重みを感じる程度の持ち応え。使い心地も値段相応に良いのだが、とにかく見た目が好きなのだ。メタリックな色使い、無駄のない丸さ、凹凸なくスッと下りてきてよくなじむグリップ、もうちょっとクリップが短ければ手の水かきのあたりに当たらなくてもっと良いのになーとは思うのだが、まあ縁を一周する針金の遊び心といい見た目が完璧なのでこれ以上は何も求めない。惚れた欲目というやつです。

最初に買ったのは一番手前のシルバーで、学生時代はいつもポケットに入れてずーっと一緒にいたので、もうだいぶ黄ばんで傷だらけになってしまった。デザインが好きすぎて色違いで4色揃えてしまったのだが、青とピンクはちょっと色の主張が強い気がする。そうはいっても好きは好き、俺の嫁と呼べる存在がいるとすればこいつである。永遠に使っていたい。

 

 

フレフレシリーズ(パイロット)

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前述のシェーカーの下位モデルとしてフレフレロッキー(500円+税、写真下)、フレフレスパーク(300円+税、写真上)、それと確かフレフレスーパーグリップが同じスタンドに並んでいたのを覚えている。ロッキー以下になるといきなりパイロットらしい男子小中学生っぽい(?)デザインになるのよね。

この記事を書こうとして調べたんですが、スパークはまだ売ってるけど、ロッキーはいつの間にかラインナップから外れてしまったんですね。当時は全く意識せずに「とにかく売っていて持っていないシャーペンをなくす」ということだけを目指して買いまくっていたのだが、おかげで今になってみたら廃盤になって入手困難なペンも手元に残っていることになり、時の流れを感じさせられている。

 

というわけで、好きなものについて語りたいというだけの記事でした。他に紹介したい文具が出てきたらまた書く。

あけましておめでとうございます:経済分野の新書を読んで迎えた年始

 あけましておめでとうございます。

 年末年始はだらだら本を読んだり映画を見たりし、その合間に美味しいものをしこたま食べるなどしていたら終わっていました。そう言えば、お風呂屋にも三回行きました。以下では、読んで面白かった本を紹介します。なんとなく経済の本を読もうと思い立ち、2冊読んでみました。

 

本:志賀櫻『タックス・ヘイブン−−逃げていく税金』

 これは相当面白かった。国際的なお金の流れと、それを規制しようとする法・政策との関係が素人にもわかりやすく書かれていた。  

 

タックス・ヘイブン――逃げていく税金 (岩波新書)

タックス・ヘイブン――逃げていく税金 (岩波新書)

 

 

 裏社会が関係する漫画や映画を観たりすると、よくスイスや太平洋の島々の金融機関にマフィアのお金が云々とかいう話が出てきたりして、これまで全く理解していなかったのだが、この本をよんでそういうお金の流れがよくわかった。この本を読むまで、不正に稼いだお金は、保管も使うのも難しいという前提がわかっていなかったので、「スイスに口座とかってなんなの?」状態だったのである。

 

※ちなみにそんな当たり前の前提すらわかっていなかった私が観たりした「裏社会が関係する漫画や映画」とは例えば『攻殻機動隊』とか、映画「ボーダーライン」とか、『闇金ウシジマくん』とか。どれも、後述する「マネーロンダリング」に関する知識があればもっと楽しめたのに、とこの新書を読み終わったあとになって思う。

 

 不正に稼いだお金は、一旦その出どころがわからないように洗浄=launderする必要がある。ここで出てくるのがよく聞く「マネーロンダリング」なのだが、その手法として、お金の流れを秘密にする法律やそれに類するものがある「タックスヘイブン」と呼ばれる地域の金融機関に預けたり借り入れたりするという方法がとられるとのこと。

 例えば日本の金融機関にお金を大量に預けると、そのことが税務署等に知れ、どうしてその人が突然そのように大金を持つに至ったのかということが明示的・非明示的に問いに付されるのだが、一旦タックスヘイブンに入ってしまったお金に関しては、金融機関の情報を秘密にするというその地域の法律に守られ、その流れが見えなくなる。こうしてタックスヘイブンは間接的に犯罪を幇助するような機能を持ったりする。

 ちなみに筆者はこのようなタックスヘイブンを批判する立場。もちろんただ批判しているのではなく、金融情報を秘密にする法制を作ることで他の場所では不可能な取引の場を作り出し、手数料収入等を稼がなければやっていけないという各タックスヘイブンの経済状況改善を同時に世界が考えなければいけない、というご意見である。

 

本:本山美彦『金融権力−−グローバル経済とリスク・ビジネス』

 先に紹介した『タックス・ヘイブン』で「もっと経済のことを知りたい」という気分になったので、数年前に序盤だけ拾い読みしてそのままにしていた本山美彦の『金融権力』を読んだ。

 

金融権力―グローバル経済とリスク・ビジネス (岩波新書)

金融権力―グローバル経済とリスク・ビジネス (岩波新書)

 

 

 これも本当によい本だった。以前読んだのは、サブプライムローン問題を皮切りとし、現代の金融界における格付け会社の役割とその功罪や、格付け会社が必要とされる背景となる、利ざやを稼ぐことをその至上命題としたヘッジファンド等の投資家たちの行動原理が紹介された序盤。

 序盤を過ぎると、序盤で紹介されたような状況がどのように生じてきたか、そして経済学がこれらの新たな状況の中でどのように発展してきたかということが説明される。素人には難しいところもあるが、著名な学者たちの個人史や彼らがいかに考えたかということがコンパクトにまとめられており、一応わかったような気分にさせてくれる。

 と紹介してくると、本書は客観的な立場に立った現在経済を観る上での指南書のように思われるだろうし、序盤だけ読む限り、そうだろうと思っていたのだが、中盤あたりから、著者が部分部分で割と強く自分の考えを主張する本であるとわかってくる。

 そもそも金融は、人々の生活をよりよくする発明等を行う潜勢力を持つにも関わらず、資金が手元にないのでできないような人に、お金を「融」通するためにあるという前提に立てば、そのような金融の役割を無視し、ルールの網をかいくぐって利ざやを稼ぐ行為は倫理的にはよくないものの方に位置付けられることになる。

 利ざやを稼ぐという行為が、結果的にお金のないところにお金をもたらす方向に向かえばよいのだが、現実はそうなっていない。むしろ、アジア通貨危機などの例をみれば、利ざやを稼ぐことを至上命題とする行動は、社会の安定や発展を阻害することになりかねない。

 著者はこのように、金融の世界における権力者たちの行動を明確によくないものの側に位置付け、そうではなく、みんなでお金を融通しあってよりよい社会を作ることはいかにして可能かということを問う。本書後半部では、そのような試みとして、NPOバンクなどが紹介される(ちょっと調べた限りでは、本書後半部で紹介されるより良い社会を作るためのオルタナティブな金融的試みは、あまりうまく行っていないみたいだが…)

 私はどちらかというと「岩波的」とされる思想に共鳴するところは多く、この本を読んでいても大いに頷いてしまった。個々人の自由な経済活動の追及が公益には通じないことも多くある。そこをつなぐ聡明な政策があれば問題は解決するのだが、それを期待するのは難しそうである。

 結局自分のした行いが回り回ってどの人々にどのような影響を与えてしまうのか、ということに関し、想像力を持つことが重要だなと思う。しかし、「自分はそういった想像力を持っている」という人々が往往にして一番盲目だったりするのであり、私益を追求しながらいかにして倫理的でありうるのか、ということに関しては、きちんとどこかで考えなければいけないなと思っているところ(こんな書き方では「きちんとどこかで考えなければいけないな」といかにも思ってなさそうだが)

 

今年もよろしくお願いします。

 

 以上、いずれも良質な読書体験でした。今年も色々な本を楽しみながら読めるといいなと思います。本年もどうぞよろしくお願いします。

 

マジョリティの言い分

 日曜朝のヒロインアニメはもう長いこと見ていないんですが、2018年に「子育て」がテーマの作品をやると聞いて黙って聞き流す気にはなれなかったので、全然関係ないんだけど思い出したことを書く。

 私はむしろ、マンガにしろ映像作品にしろ一昔前の子供向け作品ばかり好きで、今でもそういうのをよく見ているのだが、例えば90年代くらいまでの特撮ヒーロー番組なんかだと、子供を愛さない(母)親なんていない、というメッセージがしょっちゅう出てくるのだ。私自身はそういったメッセージを負担に感じたことはなかったのだけれど、そういうものを息苦しく思う人も決して少なくないということを、最近ようやく知った。私はたまたま、そういうところで描かれる理想の家族に近い形の環境で生きてくることができたので、おそらくだから何も違和感を感じなかっただけだった。

 今は、そういうメッセージ通りの家族で幸せな人はそれでいいし、そうじゃない家族でももちろんそれでいいのだ、と思っている。でも、例えば「家族は仲良くするものだ」なんて言われるのは苦痛だ、という意見に初めて出会ったときの衝撃は大きかった。そうできない、したくない家族もあるんだから押しつけるな、と言われて、じゃあ家族が好きな私の方が悪かったのか、古い価値観を温存するだけのダメな存在なのか、そうじゃない家庭に配慮して肩身を狭くして生きていかなければいけないのか、と感じた。嫌な親なら仲良くなんかしなくてもいい、と言っていただけで、別に仲の良い家族が仲良くしてはいけないと言われたわけではないのにね。家族を好きだと思うのは当然で、それが正しいことだと思って、なおかつそれを実行して生きてくることができた子供には、傲慢にも、それ以外の在り方を受け入れることすらできなかった。

 だから例えば、男女格差の問題でちょっと女性側が権利を主張すると途端に男性差別!と言い出したり、言い過ぎだワガママだと非難したりする人間が(女性にも)多いこと、ようやく腑に落ちたのでした。今まで我慢を強いられてきたマイノリティの人たちが声を上げたとき、そうじゃない属性の側の人が特権を侵害されたように感じて反発するという構図、反発する方がバカじゃねーのとばかり思っていたけど、自分だって結局同じことをやってたんだよなあ。そんなことにもずっと気付かずに生きてきてしまった。

 今はただ、少なくとも、女=母=子育て!母性愛!みたいな一方的なレッテル貼りで誰かを息苦しく思わせるようなことがこれ以上続かないような2018年になればいいなあと思う年の瀬なのでありました。

暴力を描く作品を欲する

 ふらふらとただ快を求めているうちに、快に溢れるというのではないが、不快がほぼない生活を得た。「得てしまった」という方が正しいかもしれない。通勤時間は長いが都内からの下りなので行き帰りともに座れないということがない。大抵の場合は座った席の隣に人がいないほど空いている。少し時間をずらすと、ボックス席に私しかいないということがありえる。こうなって初めて、電車の中で座ることができれば楽だと、立っている時の不快感をだけ念頭に置きながら思っていたのだが、座るにしても隣に人がいるのといないのとでは大きく違うのだなと気づく。

 職場ではこの時期主にデスクワークである。個々の裁量が高い仕事であるから、あまりとやかく言われることはない。事務作業が中心なので、社外の人とわずらわしいやりとりをする必要はない。快は時折しか訪れないが、不快はない。一人暮らしを始めたので、家でも自分の自由な時間に、自由にことを運ぶことができる。

 このような生活を送ると、感情を刺激されることがなくなる。強い不安に駆られることもなければ、怒りや悲しみを感じることもない。だからなのか、奇妙なことに、ここ数日陰惨な夢ばかり見るのだ。

 

 例えばおととい観た夢は、口論の末妹を複数回殴りつける夢だった。僕は人間の顔をグーパンチで殴ったことはないし、平手で打ったこともない。それは僕の中で最大のタブーのようになっている。DVなどの体験談で、夫が妻を殴るという描写を読んだりすると、文字通り目を覆いたくなる。そのような行為を自分がするという夢であった。僕が複数回殴りつけるうち、妹の顔は腫れ、膨れ上がっていった。殴りつけた直後の一瞬は自分のしたことの恐ろしさに震え上がるのだが、続く妹の反応を見てしまうと、そこからさらに大きなダメージを受けることがわかっているので、それを否定するように連続して殴りつける。

 

 起きてからその夢について考え、会社に遅刻しそうになった。僕は妹と様々な点で感性がことなるので、彼女を忌々しく思うことはあるし、彼女も僕を忌々しく思うことはあるだろう。しかし僕たちは、少なくとも小学校以降、身体的な暴力を振るい合うということはしてこなかった。今後もそうなのだろうし、それは自然に、そうなっていた。…で、この夢というわけだ。

 いくつか考えた末の結論は、僕はある周期を持って暴力に方向付けられるということだ。自分が振るうというのではないが、暴力を描く作品を読んだり、書いたりするなど、暴力に接近することを必要とする。特に、日常に何の変化もない時。したがって、感情が引き延ばされたり、捻じ曲げられたりしない時。そういえば、見える世界のどこにも暴力が見当たらないと思った時、僕の内部では暴力的なものへの接近が始まっている。

 暴力への接近は何のためだろうか。平穏な日常の存立機制の思わぬ脆弱さ(暴力で容易に壊れる)と、それが実際に成り立っている目の前の状況の緊張感(その成立は、複数の暴力の拮抗)を改めて感じたいのである。それは、書物で遠くにある世界のことを知ったり、思考実験のようにして知性を使うということではない。より肌感覚に迫るような、周囲の世界と、その中で生きる自己との関係性について考えたいという欲望であるのだと思う。

 

 そういった事柄に気づいて、暴力を描く作品を読んでみようと思い、『闇金ウシジマくん』という作品を立ち読みしたのだが、私の中で「顔を殴るような暴力」に位置付けられる苛烈な暴力描写の連続に一巻半くらいで挫折してしまう。本当は、それらの暴力描写が何を壊しているのか、何を明らかにしているのかということを直視し、考えなければならないのであり、それが人の暴力性にまつわる、深いところの何かを明らかにしているのか、単なる暴力描写を消費したいという欲望に供される暴力描写なのかということを明らかにしなければならないのである。しかしちょっとその体力もなく、「やっぱりグロいだけでは全然暴力描写としては優れていないよな」という当たり前の気づきと、「こういうのを読んでいたら性格が歪むのではないか」という小並感溢れる感想を抱いて、Coopで40%引きの寿司を買い(安い!)、改めて日常に戻っていく。

 そのような金曜日だった。

 

あの頃に戻りたくない

 ハタチを過ぎたあたりから年を取るのが嫌になった。などと思ったりはしていながら、昔に帰りたいとか子供に戻りたいとは、想像していたほど、というか全然、思わないんですね。

 こういうことを実感するために私はたくさん言葉を書き散らしてきたのだ。過去に自分が書いた文章を読んでいると、あんなに何も知らなくて何も考えられなかったころの自分が今よりも良かったなんて絶対に思えない。だからあの頃に戻りたくない。

 日記らしきものは小学6年のときからほぼ途切れずに書き続けてきた。ネット上でも何かしら意見を書き付ける場所を設けて5年くらいになる。ちゃんと人に読ませるために格好付けて書いた作文もずいぶんあるはずだ。で、たまに読み直してみると、これがもうとても読めたものじゃない。さすがに昨日の自分はそこまで客観的には見直せないとして、1年くらい前の文章になるとほとんど他人事みたいで、まあまあ良いことも言ってるなーなどと思うこともあるのだが、3年くらい前になるともうダメだ。恥ずかしい。ごくたまに10年前の自分の文章に感心できることもあるが、ほとんどは恥ずかしいだけだ。

 

 このへんになると、もう今の私との同一性がどれだけ保たれているのか自信が持てない。書いたのは明らかに自分なのだ。忘れたわけじゃない。でも思考があまりにも違う。

 例えば自分が中学生のときの記憶ははっきりある。あんなことを考えたなあ、という経験も自分のものとして覚えている。それなのに、そのとき考えた内容を見直すと、その経験を記憶している今の私の頭と、同じ私の頭で考えたこととはまるで思えないのだ。感じ方が違いすぎる。

 そのときどきで書いているときは真剣だったし、全力で言葉を選んでいたはずなんだ。それを覚えているからこそ、その内容のしょうもなさに今見ると驚いてしまう。間違いなく私が考えたことなんだけど、こんなこと私は考えないんだよ。ほとんど他人の思考みたいで、そうなると、過去の自分ってどこまでが本当に自分なんだ?

 

 ここでも何回か書いたけれど、この10年くらいで随分知っていることが増えた、というより、知らないということを知っていることが増えた。でも、それは単純に頭が持ってる経験の量が増えたっていう話じゃなくて、そこからはじき出される思考という結果の方もこんなに変わるってことだったんだなあと、最近気付いたところだ。過去の自分が「自分」じゃなくなるという感覚に最近初めて遭遇して混乱している。

 今が一番マシだ。今やってることが一番マシかどうかはまた別問題だが、少なくともものを考えられるかどうかということに関しては、今までの中では今が一番マシ。で、今後もどんどんマシな自分を更新していく予定だから、少なくとも後ろに戻りたくはない。となると今書いている文章も、何年かしたらもうとても読めたものじゃなくなるんだろうけれども、それでも一応、そのときどきで何かを真剣に書いておくことが重要だと思うので、今はここにぶっちゃけておくことにしました。