On the Homefront

東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

このブログの設立に関して

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 毎日疲れる。大学院を修了し、ふと思い立つように働き始めて二ヶ月。これまでも、アルバイトなどで、大文字の「働くこと」とは無縁ではなかったはずだが、上司の常なる監督のもと朝から晩まで仕事に励むというのは初めての経験だ。だから、相応の疲労がある。

このブログについて

 本当は突然書きたいことを書き始めても良いのだが、トップバッターとなるので、一応このブログを設立する趣旨を書いておこうと思う。

 僕はこのブログの発起人の一人で、江藤という。これはもちろん仮名ではあるが、様々なところでこの仮名を用いているため、自分としてはもう一つの名前のように感じている。

 インターネットで気軽に本名を明かすことができない状況がいま生じていることは、少しでも時勢に関心がある人なら、すぐにわかると思う。やむを得ずこのようにして仮名を使うが、だから適当にやっている、というわけではないことはわかってほしい。

 人文系の大学院を修了し、この春から私立高校で教員として働き始めた。まだ働き始めて二ヶ月だ。特定を恐れるので、詳しくは書かないが、大学院(修士課程)では文学を専攻していた。もちろん修士論文も書いた。しかし努力不足から、文学に関し、「詳しい」「よく知っている」という状態に至ることはできず、未だにわだかまりがある。僕は自分の内的な部分が共鳴するような作品にしか食指を伸ばすことができず、幅広く読むということが難しい人間なのである。

 このブログを作ろうと思うに至ったのは、大変単純な理由からである。何か同じ類の人と交信がしたかった。それだけである。

 「交信」と言ったが、実のところ読まれるだけでもよい。わざわざ連絡をもらう必要はない。そうであったら嬉しいが、自分の理想と、想像されるところの現実にありうる読者像とがないまぜになってできた、誰でもない誰かに対し、届かないかもしれない手紙を書くことができた時点で、ある程度の目的は達成なのだ。その上で、何か「交信」へのきっかけがあれば嬉しい。

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 実のところ、何年も前から、ウェブを介して、何かを試みようとは思っていた。しかし、するには至らなかった。「うまくできないだろう」という気持ちがあったのである。なぜそう思ったか?答えはその気持ち自体に出ている。つまり、「うまく書こう」としていたからだ。

 しかし、うまく書けるのを待つことができるほど、人生は短いのか?働き始めて、突然そういう焦りにかられたのである。つやつやした肌でちょっかいを出し合う、無邪気な生徒たちに向かって、「うまく書けなくてもいいから、何か書いてほしい」ということを何度か繰り返した、作文の授業のあとに。もしかするとあの言葉は実のところ、自分自身に対して向けられたものだったのかもしれない。

 「東京大学文科3類」に関して

 このブログの説明欄や執筆者のプロフィール欄には「東京大学文科3類」の名前が記載されている。そのことに抵抗感を持つ人はいるだろう。僕もまた、自分だったら、そのような名が冠されたブログの、読者獲得に対して「東大」という名を用いる手つきに嫌悪感を覚えるかもしれない。

 その名を冠するのには二つ理由がある。

 一つ目の理由は、書くものに責任を持つためだ。この名前を出すことで、書く僕はある程度の責任を、否応無く背負わざるを得ない。「あまり適当な言葉の使い方をするわけにはいかない」という責任意識が、ここから生じてくる。

 それは、「うまく書こう」とすることではないか?そう思う人がいるだろう。僕の中では、それは違う。ここで背負うことになる責任意識は、「うまくなくても良いが、しかし一方、ないがしろに書かない」というようなものだ。下手くそで新奇性もないが、とにかくある程度整ってはいる、という状態はある。

 二つ目に、やはりその名前はある種の「臭さ」を持ち、同類を引き付けるように思うからだ。「臭い」と思いながら近づき、このブログを「痛い」と思いながら眺める読者。自分が読者であるとき、僕は彼らの側である。

 以上で、このブログの趣旨説明は終わる。このブログは数人で運営しているのだから、僕(江藤)でない書き手は、また全く異なった気持ちを持って書き込んでいるかもしれない。もちろん、それでよい。

人は自分が望むものしか得られない

 人は自分が望むものしか得られない。望むようにしか生きられない。その通りだと思う。だからこそ、何を望むか、いかに望むかが重要だ。望んでいるものに関して、本当にそれを望んでいるのか、という問いかけが必要になる。社会的な規範をそのまま内面化し、苦労の末に望んだものを得たのち、それが望んだものではなかったと気づくのは、辛いからだ。

 しかし、現実には、そのようなケースはあまりないと考えられる。望む過程で、人々は、自分が望んでいるものこそ、まさに価値があるものなのだ、という風に、自分の中で補正し、それが本当は望んだものではなかったかもしれない、という問いを抑圧してしまうからだ。そうして、時折違和感を抱きつつも、概ね幸せそうに暮らす。それが幸せだということに、彼らの中でなっているのである。

 こういった「考えない知恵」は、それはそれで見事だなと思う。大学入学当時の僕だったら、非難の眼差しを向けたかもしれない。けれどこれほどに生きづらい社会の中で、無力な個々人が自分の領域を必死で守る、その機制を非難することはできない。

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 一方で、僕は「これが本当に望むものなのか?」と、「そうだとして、それをどのように望めばいいのか?」と、問いながら日々を暮らす側である。その日々は幸せなのかと言われたら、「いや、どうだろう」と思う。はっきり言ってしまえば、少なくとも幸せではない。何かの基準にしがみつくわけではないから、とても不幸なわけでもない。時折所在無さに打ちひしがれ、時折その根無し草的感覚を気楽に思う。

 しかし僕は、「望むものというのは、本当にはない、生きることは、ただ、どうしようもなく日々、すでに生きているのであって、それに全く意味はない」というほどにしらけてはいない。それもその通りだと思いつつ、一方で、どこかに僕の欲する理想状態はあるのだろうと思っている。ない可能性も十分あるのだが、僕はあるという立場に立っている。だからこそ僕は、このブログを立ち上げたりするのだ。

 僕にとって、自分が望むものが何かはあくまで不明瞭だが、それがあるという確信だけを持ちつつ、書くことを通して手探りすることで、何かを掴むことはあるのだろうと思う。とにかく、考え続け、書き続けることが重要だ。そしてもちろん、考えている・書いている限り、ともかくは生き続けるのである。

 書くという試みが、読み手を想定せずにあり得ない以上、手探りとしての書くことを通して出来上がる文章が何かを掴むとしたら、それは適切な読者に他ならない。読まれることは書き続ける理由を構成する。書き続けている限り、死なないのなら、読者が読むことは、書き手を生かすことである。

おわりに

 僕も読むことを続け、誰かを生かしつつ、一方で書くことで、誰かに生かされようと思う。もしかしたら、そのような関係性に参与すること自体が、僕が求めるものなのかもしれない。あまりにも読むこと、書くことがないがしろになっている気がする。そして、僕自身もともすればそのことを、あまりにもないがしろにしているのだ。時間がないから。

 −−−本当に?

 ということで、このブログは痛い元文学徒ばりに、村上春樹の最新作からの引用で終わろうと思う。

 

「時間が奪っていくものもあれば、時間が与えてくれるものもある。時間を味方につけることが大事な仕事になる」(『騎士団長殺し』、23頁)

 

「時間を味方につける」

 −−−でも、どうやって?

 

                                    江藤