On the Homefront

東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

「同じ類の人」について

 2人目の執筆者の、中江と言います。江藤くんに誘われるかたちで、このブログに参加しました。よろしくお願いします。

 

 江藤くんが記事のなかで「何か同じ類の人と交信がしたかった」と書いていましたが、私もこのブログに参加させてもらうにあたって、同じようなことを思っています。

 

queerweather.hatenablog.c 

 今となっては昔のことですが、初めてSNSのアカウントを作ったとき、「同じ類の人」と出会えるのではないか、と期待を膨らませ、自己紹介をがんばったり、気になる人に絡みにいったりしました。それはあまりに無邪気で、今の私から見ると、思わず失笑してしまうようなものだと思います。当時の私には、同じ趣味を持った人となら、きっと分かり合える、というものすごく幼い考えが根底にありました。好きな作家をとにかく羅列したり(私の場合、ヴァージニア・ウルフ綿矢りさ太宰治坂口安吾、ミシェル・ウェルベックなどなど)、好きなアニメを挙げてみたり(BLEACHカードキャプターさくらアニマル横町デジモンアドベンチャーPSYCHO-PASSおそ松さん)、好きな音楽を表記したり(ボカロ、アニソン、ハロプロ、48G、中島みゆき中森明菜など)、とにかくこんな具合に。

 

 同じ趣味を持つ人が、同じ類の人と、そう簡単に思えないような状況が私にはあるように感じます。もちろん同じ趣味を持っていて、その嗜好に対する感覚を共有できる人とも出会うことはできることと思います。しかし、例えばスポーツや食事などのいわば非言語的コミュニケーションの比重が大きい、いわゆるアウトドア系の趣味に比べ、読書や音楽鑑賞は、言語を通じたコミュニケーションによって積み上げていくものが大きく、なかなか上手くいかないことも多く、たいてい失敗のなかでそのような意識を持っていくことになるように思います。同じ趣向でも通じ合えるわけではない、これは当たり前のことのように今の私には思えますが、はっきり言って、昔の私は単純に同好の士との出会いをソウルメイトとの邂逅くらいに思っていました。「同じ類の人」というのは、「ソウルメイト」ほど大げさな表現ではありませんが、自分と同じようにものを見たり考えたりする人という意味では、近い表現に思います。当時私が趣味を書き連ねたのは、その話がしたい、ということも当然あったはずですが、それ以上に、「同じ類の人」と出会いたかったからでした。

 

 「同じ類の人」と言ったとき、ほかにどのような存在があるでしょうか。昨今話題のセクシュアルマイノリティも一般的に言って「同じ類の人」と括られているように思われます。ある時私もセクシュアリティの問題に還元して、「同じ類の人」を求めたこともありました。LGBTの集いに参加して、レズビアンの女の子、ゲイの男の子や全性愛の子、トランスジェンダーの元男性の女性などと話しました。これも当たり前ですが、肉体への欲望のあり方、関係性への欲望のあり方など、千差万別で、家父長制や規範的ジェンダーへの意識は当事者の間でも大きく異なります。しかし、そういった場では、コミュニケーションによって摩耗する体力が軽減されるように感じました。それは漠然とした「安心」が関係しているように思いますが、欲望の複雑さを学習する機会は保証できても、実際に「同じ類の人」と必ずしも出会える環境ではないようにも感じます。

 

 ほかにも精神疾患というのも、ある種の「同じ類」の旗印たりえるもののように思います。発達障害(ADHDASD、LD)、うつ病境界性人格障害統合失調症など、同じ病を公言した人同士にしかできないコミュニケーションというのはあると思います。ただ、これもそういった立場性に基づく信頼関係こそあれ、そもそもスペクトラム的な精神医学領域で、「同じ」というのは注意しなければならないですし、病人という相互意識に基づくコミュニケーションが制限するものも見過ごせません。

 

 様々な文化、様々な体系があり、様々な言葉はあるが、「同じ類の人」と交信するためには、どうしたらよいのでしょうか。東大卒、文科三類出身というのも、ある意味一つの「同じ」「類」です。そのような場をつくってくれたので、私は江藤くんたちとのブログで記事を書いたのだと思います。江藤くん、誘ってくれて、ありがとうございました。また、ここまでお読みくださった方、ありがとうございました。

 

 最後に、江藤くんに倣って、本からの引用で記事を締めたいと思います。文科三類の先輩である、千葉雅也さんの最新刊からの引用です。

 

「個々人がもつさまざまな非意味的形態への享楽的こだわりが、ユーモアの意味飽和を防ぎ、言語の世界における足場の、いわば『仮固定』を可能にする。」(『勉強の哲学 来たるべきバカのために』、112頁)

 

 今同じ類の場所に立っている人はどんな顔をしているのだろうか?

 

                                中江

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