On the Homefront

東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

「秒速5センチメートル」/あるいはみんなが観る映画を観るということに関して

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 僕は江藤である。2回目の投稿になる。

 大学二年生の時、友人の住む県人寮で、「秒速5センチメートル」というアニメ映画を観た。僕はそれまでこのアニメ映画の存在すら知らなかった。観てからインターネットで調べ、それが非常に有名な映画であることを知ったのである。それを知った時にまず持った感想は、「一体どのような情報網から、人々はこの映画の存在を知るのだろう」ということだった。映画もアニメも観なかった当時の僕は、その方面での情報をいかにして手に入れるのか、全く想像がつかなかったのだ。

 四、五年後、曲がりなりにも研究に片足を突っ込む身分となって、何が有名かということは所属する共同体によって大きく変わるということを実感する。映画・アニメの知識がエコノミーとなるような共同体の外部に、当時の僕はいたのである。

 

アニメ映画の「超有名作品」を追い始める

 この映画に触れたことをきっかけに、本当に有名どころのアニメはつまみ食いでよいから観ておこうと思うようになり、「デジモンアドベンチャーぼくらのウォーゲーム!」、「千年女優」、「新世紀ヱヴァンゲリヲン」、「Serial experiments lain(シリアルエクスペリメンツ・レイン)」、「攻殻機動隊イノセンス」などを追った。リアルタイムでは「魔法少女まどか⭐︎マギカ」や「サイコパス」を観た。

 このようにして並べるとすぐにわかるように、それは本当に「つまみ食い」以上のなにものでもないのである。友人が言及しているのを聞きなんとなく観て、「面白かった」という感想を持って終わり、という鑑賞経験が大半だ。いくつかについてはまともに考えようとしたのだが、大抵は消費者の立場に甘んじていて、それ以上ではない。その意味で、僕は今世紀を生きるスノッブな日本の文系大学生を地でいっているのである(とはいえ、上にあげた超有名作品ですら、全て観たことのある人は案外少ないのではないだろうか、という矜持もまたあるのだが…)。

 

秒速5センチメートルについて抱いた違和感

 話を戻す。アニメ映画のいくつかを「教養」として観ておこうと思うきっかけとなったのが、僕にとっては「秒速5センチメートル」だった。最初に観た時は正直、あまりピンと来なかった。「いいだろ」といって同意を求める友人の押し付けがましい態度も嫌だった。

 しかし、観てから一日二日経つうちに、なんとなくその映画が気になっている自分を発見したのである。特に、物語の中心となる恋仲の男女が過ごした日々が一気通貫に振り返られるラストが。

 そしてまた一方で、それに惹きつけられてしまう自分に違和感を感じもした。情感として自分は惹きつけられている。しかし、理性はそれを無批判に肯定することをためらっている、そのような感覚であった。

 その感覚を手のひらで転がしながら、複数のレビューを見ていくうち、「秒速」が気になっている自分や、それが僕と同年代の男子学生たちに受けているという状況自体が気になるに至ったのだった。僕(たち)がそれに惹きつけられているということ、そのことを言語化することに興味が湧いてきたのである。

 

「評」を試みた手紙

 そうして、当時、僕はそれを見せてくれた彼に対し、架空の手紙を書いたのだ。一部抜粋してみる。

秒速5センチメートル」に君はいたく惹かれているようだったね。僕も確かにあれは良いと思ったけれども、それは君と一緒にあの寮の狭くて散らかった部屋で見たというその思い出の中に組み込んで今、懐かしく思い出すことが出来ているのだ。この点は君に非常に感謝している。僕は確かに、君の寮に一夜遊びにいったこと、そのことを大切に思っているからそのことはしっかりと今言っておく必要がある。

 その上で言うけれども、君はどうして「秒速」に惹かれるのだろうね。というより、僕も含め僕の同世代からあのアニメが支持を受けるのはどうしてだろうね。そのことを僕は君と話合いたいのだ。

 

 ということで、ここですでに恥ずかしいのだが(笑)、その気持ちを一旦括弧でくくり、冷静に読み直してみると、行間から切実さが滲み出しているのがわかる。書かなければならない、と思いながら、当時の僕は書いていたのだろう。

 

 大きな時間を見渡す眼の獲得

君が確かその夜に言っていたように、恋愛のまっすぐさの魅力はその通りだ。けれども、恋愛を描いたアニメなど星の数ほどあるのだからそれが特別に、このアニメに僕たちが惹きつけられることの理由にはならない。

 まず、あの映画の仕掛けとして僕が気づいたことをあげたい。

 第一に、登場人物の男も女も無個性化されていることだ。彼らは過度に美しかったり、魅力的であるわけではない。

 第二に、扱われているエピソードに関しても、同様に特別な事柄はないということだ。手紙のやりとり、転校、転校したあと会いにいくという展開、電車の遅延。真新しさを感じさせたり、意表をつくような展開はない。ただそれらが、景色の中で象徴的に美しく点景化されている。

 以上のように凡庸な二人の凡庸なエピソードを積み上げることで、二つの効果が生じると思われる。一つ目に、それらが無個性的・日常的であるからこそ、それが観客にとって自分たちの過去にありえたこととして意識されるということだ。言ってみればあのアニメの非個性的な性格は公約数をとってきたが故のものである。

 しかしながら一方、その公約数の提示の仕方については工夫が凝らされている。この映画においては、そのように自分にありえたかもしれない出来事の集積を、中学、高校、そして社会人になってからという一つの大きな時間の流れのなかで観察する視点が与えられる。たった2時間程度の中で、それらが一気に見渡されるのである。

 それを通して、攫もうとして攫めなかったことや、有り得た未来とそうならなかった現在がそれぞれに想起され、喪失が際立ってくる。凡庸な生の積み重ねを見渡すことのできる視線は、二度と取り戻すことのできない過去に対して、自分があまりにも無力であるということを知らせてくる。

 繰り返すが、重要なのは、長い時間的スパンにおいて起こることが、2時間で凝縮されて提示されるという映画の仕掛けを通して、観客に提示される、大きなものと小さなものとの対比なのだ。そこに、透明な寂しさが胚胎する。

 それでは、それはどのような寂しさなのか。ここからは推測の域を出ないのだが、その寂しさの内実とはつまり、大きな時間の流れから見た時、僕たちはとてもちっぽけだということだ。

 おそらく、この部分が「秒速」の最後の場面を振り返って述べているところだ。無個性化した二人のキャラクタの、何の変哲もないエピソードの集積が、それゆえにこそまさに自分にもあり得た、そしてもう二度と取り戻せない過去として、去来するような感覚にとらわれること。そのことの理由を、当時の僕は説明しようとしていたのだろう。当時読んでいた柄谷のターム「視差」がここで間接的に意識されている。

 舌足らずな数年前の僕の説明を今、補足するのだとしたら、自己存在の無力、小ささを実感することにより一種のカタルシスを喚起する装置として僕は「秒速」を捉えようとしたのだ。

 したがって僕が最初に「秒速」を見た時に感じた違和感、つまり「無批判に肯定はできないな」という気持ちは正当だったと言える。そのようなカタルシスにいつまでも安住することが、僕たちのやることではないと、今はそう考えているし、それを言語化することができなかった当時の僕もそう考えていたと思われるからだ。

 

みんなが観るものを観る

 「秒速」に関し、自分なりに感じたことを表そうとした経験は、その後、同世代の学生と話す時に役にたった。この映画を観たことのある学生は周りに比較的多く、個々人がそれをどう観たかということを聞く中で、僕はその人物がどういう人物か、自分とどのような点で異なりそうか、ということをプロファイルできたからである。

 誰もが観る作品を一応観ておくというのはそれについてきちんと考えるという前提の上で、意味があるのかもしれない。そう思い、僕はそれ以降有名なアニメ映画を追い始めたのだった。先に述べたように、怠惰な僕は、結局、一方的に消費してばかりではあるのだが…。

 

                                     江藤