On the Homefront

東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

「文三」とは一体何なのか

 

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 東大の文三生を2年やり、またその後も「文三出身」として生活をしていると、否応無しに「文三」を貶める発言を聞く。「東大って言っても文三でしょう?」という言葉を文三出身である私に直接的にあびせてくるほど勇気のある人には(幸運にも?)お目にかかってこなかったけれど、「あなたはきちんと目的を持って文三に入ったのだろうけど…」という前置きから始まり、文一や文二の最低点の高さを倦厭して文三を選ぶ功利的な学生らを遠回しに批判する言説に直面したことはある。

 

 実際にそういう学生らは確実に一定数いる。また、「自分はそうでない」という思いがまず浮かんで来る人に関しても、ある行為を選択した理由を後から振り返ってすっぱりと言い切ることは難しいものだから、真摯に考えようすればするほど「比較的簡単に東大の称号を得たいから入ったという側面が、自分にもあるのかもな…」と思わずにはいられないだろう。

 

 もちろん、それは恥ずかしいことでもなんでもない。積極的にひけらかすことではないが、大学受験における「志望」というものには、多かれ少なかれ功利的な理由が含まれるものである。そのような理由とは全く無縁な人がいることは否定しないが、明らかに、少数派だと思う。

 

 冒頭に挙げたような、文三に対する遠回しな批判が、そのように取るに足らないのだとしたら、なぜあえてこのような話から今回の記事を始めたのか。その理由は、冒頭に挙げたような文三批判が、文三のよくわからなさに起因していると思われるからだ。この、「文三のよくわからなさ」について考えてみたい。

 

 文三と聞いて、どのようなイメージを抱くだろう。まず抱かれると考えられるイメージとは、「文学や哲学、歴史に詳しい人が多くいるのだろう」というものだ。

 

 これは大間違えである。誰からも一目置かれるような「詳しい人」は、30人のクラスに3人ほどいれば多い方で、一人もいない可能性すらありうる。

 

 また、「このご時世あえて実学につながる文一(法学)でも文二(経済学)でもなく、文三(人文諸学)を選ぶのだから、よほどやりたいことがはっきり決まっている人が多いのだろう」というイメージを抱いて入る人も多いかもしれない。それも大間違いである。大半は「漠然と人文科学に魅力を感じている人」だ。

 

 「じゃあ結局文三って何なの?」

 

 文三生こそ、それが知りたい。実のところ上に挙げた二つの幻想にもっとも強くとらわれるのは、他でもない文三生である。作り上げた「文三」イメージに期待を膨らませて入学し、遅くとも一ヶ月程度で、抱いていたイメージが「幻想」であることに気づく。

 

 そこからの反応は様々で、「自分はそうではないのだが、文三には多くの人が抱くイメージ通りの人々が(少数ながら)いる」と言って幻想を強化する者、「全然イメージと違った…」と落胆を隠さない者、実は将来の進路についてはブレブレなのに「私は高校時代からプルーストが好きで、どうしても仏文がやりたかったから文三に入ったの」と幻想をそのまま生き始める者、「東大入れるんならどこでもよかったんだよね」「やりたいこととかないんだけど」とぶっちゃけ始める者などがいる。

 

 

 …と古巣の文三について語り始めると、割と尽きないのだが、ともすれば自己陶酔的になるので、本当は、あまり好ましくないと自分で思っている。

とはいえ、続く。