On the Homefront

東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

一人暮らしで迎えた変化

 最近一人暮らしを始めた。当然に孤独を感じる機会が増えた。

 何も家族と住まなくなったことだけが、その理由ではない。いくつかの偶然が重なり、人を避けようと思えばいくらでも避けることができるようになったのだ。

 

 例えば、朝の電車は下り方面に乗ることになったので、やりようによっては、人が数人しか乗っていないような車両を利用することができることになった。通勤の電車に乗っているにもかかわらず、視界から人を完全に追い出せたりするのである。高校一年次より基本的に混み合う電車を利用していた私にとって、これは大きな変化だ。

 また、近くに喫茶店がいくつもあることから、朝起きてすぐ、または夜寝る前に気軽に喫茶店にいくことができるようになった。そのような時間帯は、場合によっては自分一人しか客がいない。

 

 日常生活の中で、一人になれる時間を得ることができるのは尊いことである。実家暮らしで常に私が待望していたのは、一人になれる時間だった。それは、同じ場を共有する人のいない時間を意味しているわけでは必ずしもない。そうではなく、周囲に気兼ねをすることなく、自分一人のことだけを考え、自分のしたいことだけに集中することができる時間ということを示している。実家暮らしにおいて、それは不可能ではなかったが、なかなかに難しかった。

 

 実家暮らしをしていた時には自分の部屋は与えられていた。したがって、扉さえ閉めてしまえば、部屋は私一人になった。しかし、だからといって、部屋の扉さえ締めれば、一人になれる時間を得られる、ということにはならなかった。

 家族が発する生活音や話し声、そして足音は扉を超えてこちらに聴こえてくる。それらに細かく神経を刺激され、絶えず意識の一部をそれらにもっていかれる状況下では、自分のしたいことだけに全ての集中力を注ぎ込むことはできない。部屋にいるのは自分だけだが、意識を向けているのは自分に対してだけではないのである。

 

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 一人になれる時間ができたことで、私の中にはいくつかの変化が生じているのだが、その一つに、テレビをみたいという欲望が湧き上がってきたことが挙げられる。

 私は実家暮らしではテレビを嫌っていた。それはもう毛嫌いしていた。だから、テレビが欲しいかもしれない、と母親に電話で告げたとき、相当に驚かれたのである。

 

 なぜこのようなことになるのだろう。その理由は、私が嫌っていたのがテレビそのものではなく、自分の意に沿わない雑音を、意に沿わない大きさで、意に沿わないタイミングに聞かされることであったからだ。

 ある時にバカバカしく思う番組でも、それを必要とするタイミングはある。ある時にはうるさい音量でも、ある時には物足りないということがある。家族の基準に合わせ、それらを押し付けられることがたまらなく嫌だった。だったら、無音の方がずっとマシで、テレビなどない方がマシに思えたのだ。

 

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 自分の意に沿うように周囲の状況をコントロールしたい。そうして、自分のしたいことだけを、したいように十全にこなしたい。

 このようにおよそ社会性とは無縁な志向ばかり上で開陳したが、こういった欲望を持つのは、日常生活の様々な場面で、他人に合わせようとしすぎていることの裏返しであろうと、自分でそう思うのである。

 

 合わせ過ぎることなく、一人で閉じこもり過ぎることなく、なめらかに生きたい。それはどのようにして可能なのだろう。

 

                                    江藤