On the Homefront

東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

「時は金なり」という病気

 江藤である。少しサボりすぎてしまったが、通常運転に戻していく予定。

 

 次から次へととにかくこなしていくことが中心の生活であると、余りの時間がなくなってしまう。もちろん、空き時間はあるのだが、「空き時間」とは埋まっていることが前提の、私の有する時間の中で、たまたま空いた時間にすぎず、「空き」という認識自体がその時間を埋めることを要求している。結果空き時間は「〜をする時間」とすぐさまラベリングされてしまい、何にも使う予定のない、余ってしまった時間とはまた別なのだ。

 

 余りの時間とは、本当に何をすることもないような時間だ。仕事場には空き時間はあっても、余りの時間はあり得ない。仕事場には何かをすることに方向付けられている時間と、何かをすることに方向付けられるべき時間=空き時間しかなく、何にも方向付けられていないし、また、方向付けるべきでもない時間=余りの時間は存在しない。少なくとも、そういうことになっている。

 だから、定時前に仕事が終わっても、私は定時までふらふらしているというわけにはいかず、普段なかなかできないようなデスクトップ上の不要ファイルの削除や、いつのまにか机の上にたまってしまった書類を整理するなどして時間を過ごす。

 

 それでは、仕事場の外ではどうだろうか。私の場合、余りの時間を享受できるとしたら、それは土曜日の午後と日曜日の夜だ。しかし、それはあくまで「できる」というだけで、実際に余りの時間を享受するのは二週に一回程度だ。何らかの予定を入れてしまうのである。

 というのも、何にも投資されずに消費されてしまう時間を惜しいと思う感情が働いてしまうからだ。何かに投資したい。そしてその分の見返りが欲しい。時間を投資し、その見返りをもらうことを中学以降繰り返してきた末路が、時間をお金と同じように投資するものとしか受け取れないこの感覚である。自分の人生経験が、自分の視野を著しく狭めていることがよく分かる。

 

 余りの時間を余りの時間として体験することは、従って私にとって、まれな出来事である。とはいえ、仕事以外の趣味をもたないので、それでも余りの時間は二週に一度くらい発生する。最初は「これを何に使おうか」などと思い、何か使う対象を見つけようとするのだが、幸か不幸かそれは見つからないので、重い腰をあげて余りの時間と直面するしかない。具体的には、散歩をしたり、消化できていない積ん読を二、三冊持って喫茶店に行く。

 すると、8割方気だるい時間なのだが、ふと発見がある。発見とは、自分の外に発見するのではない。中に発見するのである。「そういえば、これはどう考えておけばよかったのだろう?」「よく考えたら、これが、自分の生活の小さな枷になっているかもしれない」等々。

 案外本質的な問題がここから出て来たりするので、前述のように私は基本的に余りの時間を避けようとしてしまうが、一方で避けようとすることがよいことばかりではないことは頭ではわかっている。わかっているのだが、走る車がすぐには停まれないように、どうしても、そこに何かの目的を付与しようとしてしまう。

 

 目的から無縁な時間を、主体的に過ごすのは難しい。能動的に余りの時間を過ごすこと。余りを余りとして享受すること。そのことは、私にとってなかなかに困難だ。しかし、自分の内面に降りていこうとする時間なしに、生が善くなることはありえない気がする。そして、自分の生活は自分で善くしていくしかない。

 生活を善いものとしていくこと。そのことは、大学以降の自分にとって、学ぶことの根本動機だった気がする。

 私が学んだ人文科学はお金にはならない−−−厳密にはこの言い方は間違えで、正しくは「私は学んで来た人文科学をお金にすることに興味はない」のである。実はこれですらもかっこつけだ。私が高校の国語教師の口を見つけられたのはなぜか?もちろん、私が国文学を勉強していたからである。つまり、私は学んだ経験をお金にしている。

 脱線したが、ここで言いたいのは、お金にすることを主たる動機として、文学を学んで来たのではないということだ。善く生きたい。それこそが主たる動機だった。

 

 それでは、「善く生きる」に含まれる「善い」とは何か。その問いの系譜を真摯にたどろうとすると、どうやら私の生を丸々消費してしまうほど時間がかかることがわかった。「善い」とはなにか探求するうちに、「生きる」の方が終わってしまう。とりあえず、その答えを自分なりに練り上げていくしかない。

 そして、それは必然的に不完全なものにとどまるだろう。他の人から見ればあり得ないような屈折や偏見に満ちたものになるだろう。だとすれば、「善い」とは何か、問うこと自体があまりに空虚ではないか。うん、空虚である。虚しい。その虚しさが、哀しい。

 

 

 できることといえば、この虚しさゆえの哀しみから目を背けず、ゆっくりとそれを深めていくことではないか。深まりゆく哀しみが、いつか自分自身の深みへと転化することを希望しつつ、哀しみを「投資」した結果物として「深くあること」を希望してしまう、やはり「投資」に囚われた自分のありように、改めて哀しみを抱きつつ、その哀しみから目を離さず、手を放さずにいよう、と思う。

 「善くない生」をにべもなく棄却することを通し、「善く生きる」ことを獲得することは不可能だからだ。恐らく、この推測は間違いではない。