欲望するからAVを観るのではなく、欲望の対象を見つけたくてAVを観る。
昨日友人と話している時に「夕食の後は結構AVを観る」と言われ、「食事の直後って私あんまり性欲が高まって興奮するという感じじゃないんだよね。平常状態でAV観ると気持ち悪くなったりしない?」と聞くと、「でも、僕は基本的に平常状態で観始めるよ。AV。」と返されました。
「ふーん」とかいってその場はそれで終わりにしたのですが、その後冷静に考えてみると、私も基本AVは平常状態で観始めるな、と思いました。少なくとも、とても性欲が高まっている時に観るということではない。そこまで高まっているのなら、AVをわざわざ必要としないことが大半です。
しかし、一応何らかの欲望を持ってAVを観はじめている気がする。興奮しているというわけではないけれど、何かが高まって観はじめてはいるので、「平常状態」という言葉には若干違和感があるのでした。
それではどんな時にAVを観ようと思うのかと言えば、もちろん自慰をしたいときです。ただし、繰り返しますが、性欲が高まって今にも破裂しそうで、やむにやまれず観始めるというわけではない。性欲を高め、興奮し、自慰をして快感を得るという一連のことをしたいと思って観始めるわけです。性欲が高まって観るのではなく、性欲を高めるということがしたい、と思って観始めるのです。
性欲を高めたいというのは、それではどのような欲望なのか。自分自身の話をするのなら欲望の対象に何かしら集中する濃密な時間が欲しいということのような気がする。普段何かを強く欲望することのない私は、欲望すること自体をしたいと思って漫然と色々なAVを漁る。するとどこかしらに自分の欲望を掻き立てるAVを見つけることができる。ああ、これに私は興奮するんだな、と思う。
これは、自己認識を深化させたいということなのか。自分の性的な方向付けを発見することで改めて自己の輪郭をはっきりとしたものにしたいということなのか。
たしか、赤川先生の本にはそんなようなことが書いてあった気がします。
性への自由・性からの自由―ポルノグラフィの歴史社会学 (クリティーク叢書)
- 作者: 赤川学
- 出版社/メーカー: 青弓社
- 発売日: 1996/07
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 6回
- この商品を含むブログ (6件) を見る
それで、もしそうだとすると、どこまで言っても自己が不確定なものとしてある以上、ポルノグラフィを探索する旅は終わらないことになるわけです。
あまり自己の内面を見つめず、深く考えないタイプの子がいたってノーマルな志向性を持ち、そもそも大して自慰をせず、するとしてもおかずが『To LOVEる』レベルだったりするのは、それほど自己の輪郭を確定する必要にかられていないからなのだろうと思われます。
自己探索を盛んにする人物は、自己の性のアブノーマリティについて語りたがり、また、AVに関しても、細かな設定にこだわったりする嫌いが強いように感じられます。
だからなんなのか。うーん。ちょっと保留、なのですが。
今日は風が滑らかで大変良い日でした。