On the Homefront

東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

実家の猫に会いたくなる 大江健三郎『静かな生活』

   前の記事に書いたように、ここ数日、小説が読めない日々が続いていた。

 

queerweather.hatenablog.com

 

 しかし、趣味が読書以外にないので、本が読めないながらも、なんとか読めるものを探ろうと、これまで読んだ本の気に入った部分だけをそぞろに拾いながら読んでいた。

 その中で、二読目の大江健三郎「静かな生活」(『静かな生活』、講談社文芸文庫、1995年、9-36頁)の中の一節がとても気になった。兄妹の、性的な意味合いを排した親密さ、長く同じ場所でともに育ち共に生きてきた動物同士のような自然な親密さが、明瞭かつ簡単な言葉で、自然に染み入ってくるように書かれていたからだ。この記事ではその一節を紹介してみたい。

 

静かな生活 (講談社文芸文庫)

静かな生活 (講談社文芸文庫)

 

 

 

 『静かな生活』は1つの家族の日常生活を描いた短編連作だ。大江作品には珍しく(というか、唯一だろうか?)全編に渡って女性の語り手が採用されている。語り手マーちゃんは作家大江健三郎夫婦になぞらえることの容易な、大作家の父と映画監督の妹である母を持つ。冒頭に置かれた表題作「静かな生活」はその両親が海外に出かけることになり、マーちゃんと知的な障害を抱える兄、そして受験生の弟の三人が留守番生活を始める顚末と、留守番生活においてマーちゃんが出会った小さな事件を描いている。

 

    この小説内でもっとも印象に残ったのはマーちゃんと知的な障害を持つ兄イーヨーとの関係性の描出である。

   「静かな生活」冒頭部で語り手のマーちゃんは、成人になったことをきっかけに、結婚の計画を告げることを両親に迫られ、障害を持つ兄イーヨーを伴ってでなければ結婚をする気は無いと行って親を驚かせる。もちろんそのようなことは難しいため、端的に結婚についての計画につき語ることを拒絶したのであった。しかし、結婚計画の不在を告げることはマーちゃん自身にとって、自己の孤独を意識させることでもあったため、その夜、イーヨーを介添人として、花婿不在のまま、花嫁としての自分が「ガランドウの場所」に立っている夢を見てしまう。それに続くのが以下の引用部である。

 

 夜が更けてから眼をさまし思い出すうち、私はなによりも色濃く、夢の寂しい気持をブリかえらせてしまい、暗い中のベッドに横になっていることができなくなった。私は階段を上って行き、兄がトイレに通う際つまずかぬよう常夜灯をつけて狭く開けてあるドアから、寝室に入って行ったのだ。子供の頃いつもそうしていたように、なんとなく抱えていた使い古しの毛布で膝を覆うと、イーヨーのベッドの裾の床に坐りこみ、人間の肺の規模を越しているような音の寝息を聞いていた。小一時間もしてから兄は薄暗がりのなかでベッドから降りると、さっさとすぐ向いのトイレに出て行った。兄にまったく無視されたことで、私はあらためてもっと孤りぼっちの気持になっていた。

 ところが大きい音をたてていつまでも排尿するようだったイーヨーは、そのうち戻って来ると、大きい犬が頭や鼻さきで飼主を小突いて確かめるように、躰をかがめてこちらの肩のあたりを額で押しつけ、私の脇にやはり膝を立てて坐り、そのまま眠るつもりのようだった。私は一度に幸福な気持になっていた。しばらくたつと、兄は分別ざかりの大人がおかしさを耐えているようなしゃべり方で、しかし声だけは澄んだ柔らかさの子供の声で、−−−マーちゃんは、どうしたのでしょう? といった。私はすっかり元気をとり戻して、イーヨーをベッドに寝かせつけると自分の部屋に帰ったのだ。(12-13頁)

 

 動物同士の体のぶつけ合いになぞらえられる身体的交流によって、ここでは二人の親密さが確認される。兄イーヨーは妹マーちゃんがどのような感覚に陥っているのか、妹から言語的に伝えられるわけではないのだが、一人座り込んでいた妹の傍に寄り添い妹がどのような状況にあるのか茶化すように尋ねることによって、妹の方の孤独感は解消される。

 物語冒頭から語り手マーちゃんによって強固に抱かれてきた、自分が庇護する側であるという気負いにより形作られる、庇護するもの=マーちゃん対庇護される側にある障害者=イーヨーという構図はここで綺麗に反転する。「分別ざかりの大人がおかしさを耐えているようなしゃべり方」が、「−−−マーちゃんは、どうしたのでしょう」という文字面を読むと、その息遣いとともに、聞こえてくるような気分になってくる。

 

 一人暮らしをしていると、人と親密な接触をするということはまずない。ただ傍に誰かの体があり、誰かが控えているということの尊さを思い知った気分だ。特に、この部分を読むと実家に置いてきた猫のことが思い出される。すでに成人して久しい私は、家族のものと体を寄り添いあわせるということをもう何年もしていない(し、別にしたいとも思わない)のだが、飼っていた猫は家にいた時、常に私のそばにいた。そして、引用部、「大きい犬」に例えられたイーヨーの動作そのままに、額で私の本を読む腕を時折小突いてきたのである。

 書いていて、その猫が、とても恋しくなってくる。来週は実家に帰ろう。

 

***

 ところで、最後にまた別の本の紹介なのだが、最近自分の大学院時代の先輩である村上克尚さんの単著が新曜社から出版された。

 

動物の声、他者の声: 日本戦後文学の倫理

動物の声、他者の声: 日本戦後文学の倫理

 

 

 この本の第十一章では大江健三郎万延元年のフットボール』が扱われているのだが、そこには「傍らに寄り添う動物」という副題がついている(278-301頁)。

 『万延元年のフットボール』冒頭には、この小説の語り手である根所蜜三郎が飼い犬とともに庭の穴の中に落ち込んでいる場面がある(例えば講談社文芸文庫版の10-11頁)のだが、村上さんはこの部分の、語り手の傍らに寄り添う動物=犬に着目し、ここに異種間の情動の交感の可能性や共生というテーマを導こうとしている。

 

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

 

 

 

 最近村上さんの本を読んだので、上の「静かな生活」の一部分を紹介するにあたっては、その表現を借りた部分がある。

 

 蛇足でした。