On the Homefront

東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

佐為の暴力が明らかになっていく物語 ジャンプ的成長物語の傑作『ヒカルの碁』

 勤労感謝の日に実家に帰って、ふと『ヒカルの碁』を読んだ。

 

ヒカルの碁 全23巻完結セット (ジャンプ・コミックス)

ヒカルの碁 全23巻完結セット (ジャンプ・コミックス)

 

 

 主人公が成長していく様を描いたジャンプ漫画として、この作品はジャンプ史上最高傑作と呼んでいいんじゃないかなと思う。題名で「碁」と名打っているが、この漫画は碁の漫画ではない。思春期の少年の成長物語である。

ヒカルが碁に向かうまでの描写が丁寧

 この漫画は、囲碁にのめり込んで行くまでのヒカルの心理的過程を、実に丁寧に描き出している。何しろヒカルが自発的に囲碁に向かうまで、単行本で4冊くらいある。主人公がスポーツなりゲームなり料理なり、何かに打ち込むジャンプ漫画は多くあるが、打ち込むまでの過程をこれだけ長く書く漫画は他にないのではないだろうか。

 おそらく囲碁というジャンプ読者の大多数にとって馴染みの薄い題材を選択したがために、例えばサッカー漫画等であるように「ライバルへの対抗意識」とか「弱い自分を克服するため」とかそういう単純な動機で主人公を囲碁に向かわすことは難しいと原作者は判断したのだろう。

 ヒカルが碁に打ち込むことになるまでの過程には、思春期の少年が抱える問題がいくつも登場する。例えば外から見られる自分(=佐為のいう通りに打ったことでほぼ最強近いパフォーマンスを出してしまい、強豪に追われる立場になった自分)と実際の自分(=碁など全く知らないし、自信を持てる技能を持たない自分)との乖離。また、打ち込む対象を見つけられない根無し草的なありように対する葛藤など。

 これらの問題に悩むヒカルの姿には共感できるし、それらと対峙する中で碁に向かって行く動機も納得できる。だから碁など全く知らない私のような大多数の読者も、「囲碁よくわかんない。読むのやめよう」とは決してならないのである。むしろ碁に向かうヒカルの心理的過程を追うことで、ヒカルというキャラクター、そして佐為にどんどん惹きつけられて行く。自然と、碁にも関心が高まってくる。

佐為の暴力

 ところで、今回改めて読み直して思ったのだが、この作品はなかなかシリアスなテーマも扱っている。それは佐為の暴力である。

 佐為はヒカル以前に江戸時代の囲碁の達人本因坊秀策に取り憑いていたということになっている。秀策は彼自身相当の腕前を持っていたが、佐為が取り憑いて以降、秀策は佐為の指示する通りの碁を打つようになった。そして、秀策は佐為の強さにより名声を獲得する。

 佐為は碁がもっと打ちたい、さらなる高みに到達したいという一心で、秀策に自分の碁を打たせるわけだが、このようにして秀策を自分の身代わりのように扱ったことの暴力性について、佐為が気づくのは、逆に今世で自分がヒカルに取り憑いた理由が、ヒカルの成長のためだったのではないかということに思い当たってからである。ヒカルは佐為のもとでメキメキ力をつけ、途中から佐為にあまり打たせなくなる。それを横目に見て、佐為は自分がヒカルに取り憑くことになった理由に思いをめぐらしたのだった。

 何かのために利用される側に立って初めて、自分もまた人を自分のために利用してきたことの暴力性に気付く、とまあ、こう書いてしまうといかにも凡庸なテーマだが、むしろ着目すべきは、この暴力性が、全く清算されずに終わるところであるだろう。

 

碁に殉死する存在としての棋士

 作品終結部で人のために碁を打ち、人のために生きるということが、「遠い過去と未来を繋ぐ存在としての棋士というテーマに回収されていく。棋士という存在の役割、運命が長大な時間的スパンの中の一部を継ぐことに求められ、秀策や佐為の死を意識するならば、棋士は碁という文化のために殉死するものと位置付けられている

 それでは、成長物語の主人公であるヒカルもまた、碁に殉死する存在としての位置付けを免れ得ないのだろうか。

 このことを考える上で注目するべきと思われるのは、佐為の消失後にヒカルが秀策の棋譜を見て改めて佐為の強さに気づき、慟哭する場面だろう。

過剰なヒカルの泣き顔

 今回読み直して思ったのだが、ヒカルが慟哭するこの場面は描き方として相当に奇妙である。まず作中でここほどヒカルの顔しか書かれなかった数ページはないだろう。しかも、モノローグ(というか、独り言)もなんだか性急である。あまりよく覚えていないのだが、記憶だけで述べると以下のような形だった。

自分が強くなったことで、佐為の強さが初めて理解できた

→もっとあいつに打たせてやればよかった。

→俺なんかじゃなくて、あいつが打つべきだった

 

  このような思考の流れがヒカル自身によって語られそれぞれのコマではこれ以上ないほどに、読者のショタ心を刺激するようなヒカルの泣き顔、落ち込み顔が強調される。この辺りは読んでいて申し訳なくなってくる。いたいけな少年の泣き顔をこれほどあらわに、それも1ページのほとんど全てのコマにアップで映されると、一種の過剰さを感じてしまうのだ。本来それほどジロジロ見てよいものではないものを、コマに従えば信じられないほど何度も、それも正面から見ざるを得ない。

 このシーンは、ヒカルの改心をこれでもかというほどに強調するために挿入されている。ここでヒカルは、自分のために碁を打つことよりも、自分よりはるかに神の一手に近い存在に碁を打たせることの方が、碁全体の発展に寄与するという観点から佐為に打たせるべきだったと言っているのである(もちろん、心の支えになっていた佐為との急な別れを受け入れられずに、戻って来て欲しい一心でそう言っている、という側面もあるのだが)。

 こういった個に対する全体を優先させる思想は、やはり個に対する暴力性を孕む。佐為自体はヒカルの独創的な手を横で面白がり、後押しするような温かな支援者であったりしもしたのだが、敗者を排除するような勝負の世界の過酷さは、やはりより優れたものを是とするような思想にヒカルを置いていく。このような暴力性こそが囲碁という共同体を成立させる一つの掛け金なのだということを作品は第一に述べているように思われる。

 そこでは棋士はあくまで、過去と未来をつなぐための多くの駒のうちの一つにすぎず、過去から未来へとつながる、そのつながり全体こそが優位に置かれているのだ。

 しかし他方で、消えかかる佐為がヒカルに対し、「楽しかった」と言おうとしたように、神の一手から程遠いところにあるような、目の前の一手を元にしたヒカルと佐為との関係のありようにもまた、固有の意味がある。「過去と未来をつなぐ存在としての棋士」のいま・ここ性がいかに描き出されているかということが、この漫画の成否をわけるポイントである。

 

ヒカルの身体の描出

 そこで見るべきなのは、おそらく思春期にあるヒカルの身体の描写なのだろう。ヒカルの少年らしい肢体の様々な動きは作中で生き生きと描き出されており、身体を持たない霊的存在である佐為とは対照的である。囲碁というと青白い痩せた少年をイメージしがちなのだが、小麦色に日焼けし、前髪部分を金に染め、ジャージを着込むヒカルは普通に運動部の少年っぽい。なんなのだろう、このギャップは。

 今日は疲れたので、続きはまた今度書きます。