On the Homefront

東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

15時あるいは16時の話

高校生の頃、たしかに私は意志の力を信じていたように思う。より正確には、意志が現実世界に及ぼす影響を、その意志の推進力を疑わない方が自然な程度には有用だと思っていた。漠然とそれまでの学校教育は「意志をもつことの大切さ」を折に触れて訴えてきたように感じるが、触れる現実世界の側面との相互作用でその思いは固められたものだろう。

このあいだ休日の15時ころ、バスに乗っていた。喫茶店で買いたての本を読み、コーヒーをゆっくり飲み、寒さに備えしっかりトイレで用を済ましたうえで、喫茶店を出て、バスに乗り込んだ。しかし、バスが動き始めて数分後になんと尿意に襲われた。ああもう一度行っておけば良かった、としか言いようがない事態が現出したが、私は実はバスに乗る前もう一度トイレに行こうとしていた。わざわざバスがまだ来ないのを確認して、トイレに向かったのだ。しかし、最寄りのトイレは清掃中のため封鎖されていた。そこで、私は、何か提案して相手に難色を示されたときにまるでそんな話なんてはじめからなかったように振る舞うときみたく、「それなら私は全然こだわりませんよ!」という態度で、別のトイレを探すことなく、バス停へと戻ったのであった。そのような私の人間味溢れる経緯があっても、尿意は別の原理によって貫かれていた。まったくおさまることなく、一次関数の如く当然単調増加していった。隣に人が座り、緊張感が高まると、それはもう大変だった。と同時に私は汗をかきはじめた。そうか、汗をかけば尿意もおさまるかもしれない。発汗も放尿も体内から水分を出す手段であることには変わりないし、ある高次においてその差なんて存在しないといっていいだろう。

(↓この動画を思い出した)

https://youtu.be/IEiHmj4xgLc

結論からいうと、私は無事だった。尿意の臨界点を発汗によって超えずに済んだのだろう。その日履いていたものは冬なのにかなり薄めの生地だったため(だから冷えたし)お漏らししてたら、わざわざお漏らしの跡の目立つボトムスを身につけてお漏らしをした人になっていたところだった。

そして、これはまた別の休日に、私は昼過ぎにシャワーを浴び、それなりに長い時間湯船に浸かった。そのあと、髪を乾かしたり、様々な身の回りの手入れをしているうちに、お腹が空いてきて、近くにあったキャラメルポップコーンを広げて食べ始めたら、なぜかとても苦いのだ。それも味が変だというのがわかったのはほとんど食べきるときだった。舌が痺れる感覚もしてきてなんだろうと考えたら、おそらく私は乳液を顔に塗りたくった手でポップコーンを食べていたか、もしくは乳液を顔に塗りたくりながらポップコーンを食べていた。口をゆすいでもゆすいでも口内の違和感はなかなか消えなかった。

上記のどちらも私の意志とは無関係に起きた事件であった。どちらも夕方の15時か16時に起きた些細な痛ましい出来事だった。それは小学生にとっては学校がおわって友達と一緒に家へと帰る時間であり、気が抜けてしまうのも無理もない話だ。小学生とは背景は異なるが、私もなんらかのバイオリズムでこの時間、どこかふわふわしてしまいがちなのかもしれない。

現在の私は、意志の力をあまり信じていないように思う。今まで見てきた回数がきっと万では聞かないだろう「複雑化する現代社会」、巨大なシステム、それとともに尿意、他者、無意識、あるいは季節や天気といった強力な面々がいるのである。ただ、意志を現実世界との関わりにおいて意味されるものだとすると、これは少し年をとった私が、あの頃より現実世界と確かな接面を失っているということを示しているのかもしれない。