On the Homefront

東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

暴力を描く作品を欲する

 ふらふらとただ快を求めているうちに、快に溢れるというのではないが、不快がほぼない生活を得た。「得てしまった」という方が正しいかもしれない。通勤時間は長いが都内からの下りなので行き帰りともに座れないということがない。大抵の場合は座った席の隣に人がいないほど空いている。少し時間をずらすと、ボックス席に私しかいないということがありえる。こうなって初めて、電車の中で座ることができれば楽だと、立っている時の不快感をだけ念頭に置きながら思っていたのだが、座るにしても隣に人がいるのといないのとでは大きく違うのだなと気づく。

 職場ではこの時期主にデスクワークである。個々の裁量が高い仕事であるから、あまりとやかく言われることはない。事務作業が中心なので、社外の人とわずらわしいやりとりをする必要はない。快は時折しか訪れないが、不快はない。一人暮らしを始めたので、家でも自分の自由な時間に、自由にことを運ぶことができる。

 このような生活を送ると、感情を刺激されることがなくなる。強い不安に駆られることもなければ、怒りや悲しみを感じることもない。だからなのか、奇妙なことに、ここ数日陰惨な夢ばかり見るのだ。

 

 例えばおととい観た夢は、口論の末妹を複数回殴りつける夢だった。僕は人間の顔をグーパンチで殴ったことはないし、平手で打ったこともない。それは僕の中で最大のタブーのようになっている。DVなどの体験談で、夫が妻を殴るという描写を読んだりすると、文字通り目を覆いたくなる。そのような行為を自分がするという夢であった。僕が複数回殴りつけるうち、妹の顔は腫れ、膨れ上がっていった。殴りつけた直後の一瞬は自分のしたことの恐ろしさに震え上がるのだが、続く妹の反応を見てしまうと、そこからさらに大きなダメージを受けることがわかっているので、それを否定するように連続して殴りつける。

 

 起きてからその夢について考え、会社に遅刻しそうになった。僕は妹と様々な点で感性がことなるので、彼女を忌々しく思うことはあるし、彼女も僕を忌々しく思うことはあるだろう。しかし僕たちは、少なくとも小学校以降、身体的な暴力を振るい合うということはしてこなかった。今後もそうなのだろうし、それは自然に、そうなっていた。…で、この夢というわけだ。

 いくつか考えた末の結論は、僕はある周期を持って暴力に方向付けられるということだ。自分が振るうというのではないが、暴力を描く作品を読んだり、書いたりするなど、暴力に接近することを必要とする。特に、日常に何の変化もない時。したがって、感情が引き延ばされたり、捻じ曲げられたりしない時。そういえば、見える世界のどこにも暴力が見当たらないと思った時、僕の内部では暴力的なものへの接近が始まっている。

 暴力への接近は何のためだろうか。平穏な日常の存立機制の思わぬ脆弱さ(暴力で容易に壊れる)と、それが実際に成り立っている目の前の状況の緊張感(その成立は、複数の暴力の拮抗)を改めて感じたいのである。それは、書物で遠くにある世界のことを知ったり、思考実験のようにして知性を使うということではない。より肌感覚に迫るような、周囲の世界と、その中で生きる自己との関係性について考えたいという欲望であるのだと思う。

 

 そういった事柄に気づいて、暴力を描く作品を読んでみようと思い、『闇金ウシジマくん』という作品を立ち読みしたのだが、私の中で「顔を殴るような暴力」に位置付けられる苛烈な暴力描写の連続に一巻半くらいで挫折してしまう。本当は、それらの暴力描写が何を壊しているのか、何を明らかにしているのかということを直視し、考えなければならないのであり、それが人の暴力性にまつわる、深いところの何かを明らかにしているのか、単なる暴力描写を消費したいという欲望に供される暴力描写なのかということを明らかにしなければならないのである。しかしちょっとその体力もなく、「やっぱりグロいだけでは全然暴力描写としては優れていないよな」という当たり前の気づきと、「こういうのを読んでいたら性格が歪むのではないか」という小並感溢れる感想を抱いて、Coopで40%引きの寿司を買い(安い!)、改めて日常に戻っていく。

 そのような金曜日だった。