On the Homefront

東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

先生の思い出

中高時代お世話になった教諭が亡くなった。先生の訃報が私の耳に入ったのは、私の端末の液晶上に突如現れたグループラインによってだから、目に入ったという表現の方が、事実上は正しい。

 

 私の通っていたのは中高一貫校の私立でついでに言えば別学だった。最近姉妹校と合併して共学化するのではないか、という噂があるが、私が在学していた頃から学校について時代遅れだ(もっとも、それはほとんどトイレだとか建物設備とか学年旅行で私立のくせに海外に一回も行かないとかそういう具体的な所に対する不満)とかいう声を同級生が口にするのを耳にしたし、いよいよ戦後なりのイデオロギー、もはや誰に対してのものなのかよくわからないエリーティズムが立ち行かなくなっているだろうことは、先生方が一喜一憂なさる毎年大学合格実績の降下ぶりからもわかる。

 

 先生は国語科の教諭で、私たちの代の担任陣の一人だった。私は担任を持っていただいたことはなかったが、6年間ずっと現代文か古文か日本語表現かいずれかの科目を教わった。先生との個人的な思い出は、中2の頃に授業中挑発的な態度を取っていたら激怒されて机ごと追い出されたとか、中3の時に期限ギリギリでやっつけた自由研究のレポートを「これは研究どころか(読んだ本の)まとめとしても不出来です」というコメントを書かれたとか、高3の頃に委員会活動の用で教員室を頻繁に出入りしていたところ嫌味な笑みを浮かべて受験勉強もしようねと小言を言われ続け、そして合格報告した時には「君が受かるとは思わなかった。受かっちゃうんだねえ」とまたもや嫌味を言われたとか、振り返ってみても、年長者としての余裕、そして教師としての教え子への温かい眼差しを感じさせるものばかりであった。

 

 さて、こんな嫌味を言うために私は超超久しぶりのブログ記事を書き始めたのではありません。

 

 

 図書館で借りた小田実『何でも見てやろう』を読んでいて、やにわに先生のことを思い出した。

 

「むすび・ふたたび日本島へ」の一部を引用する。

 

 しかし、私はひらきなおって言うが、たとえそれがそうだとしても、他にどんなありようがあったのか、また、あるのか。インドもまた、いつかは二代目、三代目の時代になっていくのであろう。中近東も、アフリカ諸国もまた。歴史の歩みを逆転させることはできないのだ。としたら、われわれにできることは、またしなければならぬことは、先ず自分の位置を、たとえそいつがわれわれ自身にとってもお気に召さぬものであったとしても(たしかに、そうであろうが)、だから日本はダメです、われわれはアカンのです、というふうに否定的に持っていくのではなくて、それを、とにかくわれわれはここにいる、よかれあしかれここから出発する、ここから以外は出発するところがないのだ、というふうに肯定的に捉えることではないか。すでに述べたように、たとえば、中近東諸国やインドの現状がたとえ腐敗と貧困に満ち満ちたものであろうと、彼らがそこから出発する以外手がなかった、また今もって、そうするよりほかに手がないように、われわれもまた、たとえ「悪ずれ」のしたものであろうと、このギリギリのところから出発して行くべきではないのか。

 

 私はこの文章を読みながら、かつて毎日通っていた教室で現代文の試験を受けているような気分に突如なっていた。懐かしい気持ちになり、どんどん妄想は膨らんでいった。先生は、きっと末尾の「悪ずれ」に傍線を引き、「どういうことか説明せよ」という問いを出すだろう。前の段落に遡って、どのように「悪く」どのように「擦れた」ものかをそれぞれまとめた記述を求められることだろう。そして、返却される答案に付される解答解説には「驚くほど出来が悪かった」といった趣旨のコメントが添えられていることだろう。

 

 国語の先生がたはよく雑談をしてから授業を始めていかれたものだったが、先生はよくその時読んでいる新書の話や自身の中高時代の話をされていた。それはカリキュラムに沿った授業、効率的なテクノロジーによるディープラーニング人工知能を駆使した授業ではない授業、もしかしたら余裕のない雰囲気では生まれづらいものだしマニュアル化不可能な授業であり、しかし、そこに教育的情熱というと言い過ぎな気もしてしまうけど、生徒の反応を期待する先生の創意工夫のある、人間的な時間であったように思う。ある時、先生はかつてを振り返り、「高校時代に級友と談笑するなかで自分には音楽を聴いてそれを楽しむ耳を持っていないと愕然として、それならばと思い、本を1つの本から関連しているものを芋づる式に読み漁るという読書をしていた」と、語っていた。

 

 私より三十くらい上の、国文学の修士号を引っさげて進学校に赴任した読書家の先生はきっと、小田実加藤周一鶴見俊輔も当然だけど読んでおられたことと思う。『何でも見てやろう』は、とても楽しく読める紀行文だし当時の空気感や著者の感情が生き生きと伝わってくる文体に感じたが、平成の終わりに読むと、当然すぎるがポリティカルコレクトネスに反した表現や露骨な差別語の数々に、気づく。だからどう思う訳ではなく、ただ今の時代には合っていないという謎のセンサーが働く。これは、なぞらえて言うならば、当時の位置、つまり戦後復興期の日本の位置あるいは大戦後の世界の言語空間がそこにありそこにしかなかったということであり、それを教えてくれるという点でも大変貴重だと思う。

 

 母校の話に戻すと、私が在学していた時に校舎の建て替えが目下進行中であり、敷地内は禁煙になるとの話に、ヘビースモーカーだった件の先生は、不満を口にしていたのをよく覚えている。「今まで当たり前に吸わせてくれてたのに、そんなにイジメなくたっていいじゃんねえ!」と。

 

 また、先生はある時こうも言っていた。「喫煙の習慣によって、死亡率が上がるとかよく脅かしてくるけど、自分の死は一回しか来ないし、裏返せばどんな人でも一回来るし、だったらそれは何パーセントとかの世界じゃなくて、0か1の世界の話でしょ」と。

 

 

 先生の言葉だったり存在だったりは、月並みな言い方をすれば、現在も私の心の中に生きている。先生の本名で検索すると出てくるおそらく在校生が作った、数年前で更新が止まっているTwitterの○○先生botというアカウントとは、全く異なる意味において。

 嫌煙の風潮のなか数年前にタバコを吸い始めた私は、その点世間から「悪く」「ズレて」しまっているのかもしれない。ヴォーカロイドの同人音楽も流行のアニメソングも聴いて楽しむし、漫画も読むし、アプリゲームも忘れず毎日ログインする。YouTuberの動画に高評価をつけることもある。しかし、数十年前のベストセラーを読んだりしてかつての恩師を思い出し、インスタライブでもTikTokでもなく、はてなブログに、動画ではなく文章をアップロードするというのは。

 

 そんな急ごしらえの自分への嫌味はさておき、そろそろ久しぶりの記事を締めたいと思います。中高6年間で何千回と聴いた終業のチャイムが、どこからか耳に入ってくる心地です。

 

 おそらく私は、生意気かつ不可解な生徒だったと思います。しかし、人生のある一時を先生と関わらせていただいたこと、先生から教えを賜れたことに感謝しております。

 

 先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。