On the Homefront

東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

「ただ、生きていって欲しい。死なないで欲しい。」

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 大学の学部生だった時に、数人の家庭教師をやっていた。その中に、今でも継続的に付き合っている生徒がいる。もう僕は「教師」ではなくなり、彼は「生徒」ではないのだから、僕にとっては年若い友人だ。

 昨日彼と喫茶店で喋っていた時に、印象的だった下りがあった。とても温厚な彼が、最近例外的に怒ったことに関して。それはこんな具合である。

 

 ある日、年下のいとこ(女の子)に会いに行った時のことである。彼は、彼女が、彼女の母親、従って彼にとっての叔母に、事あるごとにお辞儀をすることに気づいた。

 それを奇妙に思った彼は、なぜ親にお辞儀をするのかと聞いたという。すると、彼女は、両親というのは敬うべき存在であるから、そうするように学校の先生にならったといったらしい。

 

 彼のいとこの女の子は、中国で教育を受けている。儒教のバックグラウンドを持つ国の教育だから、そのように年上の人を敬う動作を、やや過剰に要求する保守的な教員もいるのだろうと、そう思いながら僕はふんふん話を聞いていた。

 

「生まれたくて生まれたわけじゃないじゃないですか。」

 これが、彼の怒りを喚起したらしい。その場ではそれ以上話を深めず、帰路についたが、中国から日本までの飛行機の中、そのことについて考えれば考えるほどおかしなことだと思われたため、普段滅多にしない電話をわざわざ中国につなぎ、いとこに説教をしたという。

 

子供って生まれたくて生まれたわけじゃないじゃないですか。基本的に、親が欲しくて産んでいるわけですよね。だから、子供の世話をするのは親の責任であって、敬うとか、恩返しとかとんでもないと思うんですよ。

 

 確かに、と僕は思いながら聞いていた。同時に、私が元「教師」であることもあってか、自分の意見を私に対して強く主張することのあまりない彼が、思いがけずやや強い口調でその論理をまくしたてたのには驚いた。

 本当は生まれることのなかったものを、この世に産み出してしまうこと、そこに潜む親のエゴ、産みの暴力。「へえ、そんなこと考えるようになったんだ」といつまでも「教師」目線で評価を与えてしまう自分を、やや不快に感じながら、一方で僕は素直に感心していた。感心しながら、また正体の不明な動揺を自分の中にさぐり当ててもいたのだ。

 

「死にたくはなくって。」

 その動揺がどのような性質のものか、はっきりと掴めない数秒間のあと、僕は振り返ってみれば自分としてぎりぎりの、しかし発言した当初においては、何がぎりぎりなのかよくわからない発言をしたのである。

 

生まれたくて生まれたわけじゃないというのは本当にそうだね…。そしたら、でも、生まれたくないと思っていたかどうかも、わからないよね。生まれてないわけだから。

私がその時に戻って選択できたら、どういう選択をしたんだろう。そのときにどう思うだろうかなんて、そんなこと考えること自体、意味ないかもしれないけど…。だって何も考えられないわけだし…。

 

 すると彼はしばらく眉間にしわを寄せて考えていた。中学一年生の時の家庭教師初日、彼を小さな部屋に見出したときの、「中肉で、背はとても高いのに、俯き加減だからか、線の細い子だな」という印象は、ここ数年ですっかり覆り、依然少年らしい丸みを帯びている一方、はっきりと角ばりの契機を見いだせる、首筋から肩にかけての、改めて見ると想像以上にがっしりとしたラインを、僕は触るように目でなぞっていたのだ。

 彼はこう返した。

 

ただ僕は、死にたくはないと思っているんですよ。死にたくはなくって。

 

 この彼の返答に僕は満足した。そして、その前の僕の発言が、「生まれたくて生まれたわけじゃない」から、「本当は生まれたくなかった」という風にして、死に向かっていくのではないかと、それを危惧してのことだったとすぐに理解された。「生まれたくて生まれたわけではない」は「生まれたくなかった」とイコールではない、「生まれたかった」わけではないけれど、「生まれたくなかった」わけでもない、と言いたかったのだ。

 

「ただ、生きていって欲しい。死なないで欲しい。」

 大学二年生の時、僕がちょくちょく顔を出していたゼミの先生が、退官記念講演の場において、僕を含めたゼミ生に言った言葉を思い出す。

 

僕は君たちに幸せに生きていって欲しいと積極的に願うことはない。そうであったら嬉しいし、一緒に喜ぶけれども、別にそうでなくても構わない。不幸でもいい。ただ、生きていって欲しい。死なないで欲しい。

死ぬことが常に悪い選択か。客観的に言えば、そうだとは思わない。死を選ばざるを得ない状況はあるのかもしれない。そこで、「死ぬな」というのは、場合によっては残酷かもしれない。

だけど、僕は僕のエゴで、君たちに「不幸でもいいから、死なないで欲しい」と、そう思う。君たちが死ねば、僕は君たちと、一生話をする機会を失うのだ。それはなんということだろうと思う。

 

 本当は死んだ方が楽な場面で、「死ぬな」と叫ぶのは叫ぶ主体のエゴでしかない。そう叫ぶ理由は、「「私が」死んで欲しくないから」という風に、叫ぶ主体と切り離せない形でしか提示できない。

 「生まれたくて生まれたわけじゃない」に対して、僕は何よりも、「君が生まれてきてくれてよかった、そうしてこうして話ができていること、それが僕には、本当によかった」と言いたかったのだ。

 いくら、「僕が」そう感じるからといって、それは彼にとっては全く関係のないことだ。全く関係のないことだが、僕のエゴとして「君が生まれてきてくれてよかった」と思い、また、「死んで欲しくない」と思う。なぜなら、「僕にとって」君がどこかで生きていて、気が向けば話をすることができるということが、重要だからだ。

 

 教師の言葉をここで思い出すあたり、僕はやはり、彼を「教師」の目線から見ているのだろう。教えることも一つの業だ。なぜなら、僕はこのように、「生まれたくて生まれたわけではない」彼に対し、彼を産み落とした両親と同様生きることを要求する側に回っているからだ。

 

僕のエゴ

 教えることだけではなく、人間として関係を切り結ぶこと自体が業かもしれない。

 

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 大学一年次、上の記事で書かれている飲酒事故でなくなった友人の葬式でわあわあ泣いた僕は、けれどもまた、人が生を送り、やがて死を迎えるというこの行路に対し、異議を申し立てるかのように泣くことの自分勝手さを感じなくもなかった。

 僕が「死なないで欲しかった」と思うこと、それは完全に僕の事情じゃないか?

 

 基本的に自分勝手な僕が、最も自分勝手になるのは、友人に対し、家族に対し、またはまだ見ぬ無数の人々に対し、「死なないで欲しい」と思う瞬間かもしれない。そして、僕はその自分勝手さを積極的に解消しなければならないとは全く思わないのである。

 残念ながら僕は自分勝手だけど、それでも付き合ってくれる人たちに本当に感謝するし、愛おしいと思う。