On the Homefront

東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

同じことを誰が言うかによって意味が変わる


中江です。

 

二週も休んでしまいすみませんでした。
これからは更新、がんばりたいです。

 

今日は、前回の続きではなく、最近考えていたことについて書きたいと思います。まあ最近考えていたといっても、実際大学に入ったあたりからぼんやりと思っていたことのような気がするのですが。とにかく本題に入ります。

 

それはタイトルにあるように「同じことを誰が言うかによって意味が変わる」ということです。

 

例えば、気心の知れた友人が「体調悪いかも。ちょっと席外すね」と言った場合、それまで共に過ごしてきた時間から、自然と愛着が込められたかたちで、「大丈夫?なにかできることある?」などと声をかけることになることが多いのではないでしょうか。そこでは身体の不調であるということはおよそ疑うべきことではなく、またそれに対して負担を多く感じることは稀ではないでしょうか。あるいは、その友人が身体が冷えやすい体質の人とわかっていて、その時冷房が効いている部屋に一緒に居たら、クーラーがキツかったのかなと思い「大丈夫?寒い?」などと言うのではないでしょうか。しかし、飲み会などで30分くらい前に知り合ったばかりの人でそれほど会話が弾まない感じの人が同じことを言ったら、どうでしょうか。きっと体調が悪いかもしれないけれどぜひ自分でなんとかしてください、と思ったり、なにかした方がいいのかもしれないと思うけどちょっと面倒だな、と感じたり、あるいはそもそも私と話をするのが退屈でただ離席したかったのかな、と疑ったりするのではないでしょうか。

 

あるいは別の例としては、ある著名な学者が時事問題についてシンポジウムかなんかで意見を述べていたとします。そして、それと一般的な意味で同じ内容のことを無名な大学生が喫茶店で連れ合いに語っていて、それが周囲の人にも聞こえるくらいの声量だったとします。そのとき、シンポジウムに聞きにきた人はその学者の言ってることを概ね肯定的に、少なくとも意味のわかることを言っているはずだと思って聞き、多少説明が込み入っても、煩わしさを覚えることなく、最後まで聞ききり、場合によってはその内容を理解したことを誇らしく思いながら「理解」したりするのではないでしょうか。一方、同じ人がある時喫茶店に言って大学生の持論が聞こえてきたとき、性格、気分などによって態度は様々でしょうが、わざわざ知らない人の持論を聞きにきているわけではないので、ほとんどの場合単にうるさいなと思って終わりでしょうし場合によってはかいつまんで聞いてなんとなくの内容を「理解」して熱心な若者もいるんだなとちょっと感心したり、あるいは特に感銘を受けたりせずにどうせ若者が言ってることだしこんなもんかと感じたりするのではないか、と思われます。

 

長くなってしまいましたが、これは極めて当たり前のことのように思えます。受け手にとっての伝わり方は同じ言葉でも異なり、それは言葉の意味され方が異なるということなのでしょう。同じ言葉でも情報としての入力のされ方は決して一つではないということは経験的に言って自明に思われます。それではなぜ私は長々とおそらくみなさんにとっても当然のことを書き連ねてきたかというと、文科三類に入学したときの私は、当時の私がノートやツイッターで書き散らしたものを読む限りはたしかに「あらゆる等しい言葉は等しい意味を持つ(はずだ)」と思っていて、しかし翻って今の私はタイトルにもつけているとおり「同じ言葉を誰が言うかによって意味が変わる」というふうにはっきり思うようになってきています、そうなるとこのままではかつて「あらゆる等しい言葉は等しい意味を持つ(はずだ)」と真剣に考えていた私のことを私は近々思い出せなくなるだろうと思い、消滅の予感から、せめて供養してあげられたら、と感じたからです。


中江