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東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

コンプレックスをばねにする−−−でも、何のために?

 超難関中高一貫校から東大に落ちた人の一部は東大コンプレックスを抱くようだ。そもそも日本一入試偏差値が高い大学なのだから、普通に人生を送っていれば入れなくて当然であるのだが、中高時代の成功体験に縛られ、苦悶の末に入らないことを選択した瞬間/度重なる失敗で入れないことが明らかになった瞬間にそれが大きな失敗として傷を残してしまう。

 この種のコンプレックスに一時期とらわれることは別に不思議なことでも何でもないだろう。人はそれぞれにコンプレックスを持っていて、それと全く無縁の人はほとんどいないのではないだろうか。

 以前同期の中では最速で助手の地位を得た理学系の先輩−−−柔和で気品があり、頭が良く常に冷静な彼−−−が、恋人がいるかいないかという話になったとき突然、不思議なほど強がって、「そろそろ作ろうかな」とかいいだしたので驚き、「いやいや、そんな簡単に作れないでしょう」という言葉が喉元まで湧き上がって来たことがある。こんな人でもコンプレックスを持つのか、つくづく、悩みというのは人間に平等に与えられるものなのだな、と思った。

 

 誰にでもコンプレックスはある。一方で、コンプレックスに強く囚われ続ける人は限られてくる。求めるものを得ることができなかったという気持ちに繰り返したちかえらざるを得ない環境にいる人たちが、そのような人々だ。

 例えば冒頭で触れた「超難関中高一貫校から東大に落ちた人」の中には、大学院から東大に入学するものが一定数いる。もちろん彼らが成績面で優れており、熟考の末東大に求める環境を見つけたという健全なきっかけの可能性も十分にあるが、僕の見聞の限りでは、単純に東大に入りたいという気持ちも強いようだ。

 では、東大コンプレックスに動かされて東大の大学院に入った人は、それでコンプレックスを解消することができるのだろうか。そうできる人もいるのだろうが、一部の人はむしろ、東大の大学院に来たことで、学部で東大に入ることができなかったというコンプレックスを改めて強く持つようになると考えられる。

 例えば僕の友人で、東大にどうしても入れず、別の大学に行った友人は、大学院から東大の、それも入学が難しい研究室に入った。大変な努力だったろうと思う。大学院の入学式に彼が二親とともに出席していたのが印象的だ。内部から進学する学生の親の場合、大学院の入学式はスキップする人が多いからである。

 それで、彼にとって東大に行く/行かないの件はもう決着がついたものと捉えていた。しかしそうではなかったようだ。もう大学院入学直後、彼がインスタ上で、誰もが名前の知る首都圏難関私立高校から私大に行った友人(つまり彼と同じような境遇の人)と、「東大のことにずっと拘束されている気がして」とレスを飛ばし合っていたのを見たときは驚いた。なるほど、大学院で東大に入っても、学部で東大に入れなかったというコンプレックスが持続することがありうるのだな、と思った。

 そうして彼は、再びコンプレックスを解消するために、今度は大学院での勉強に励むことになるのである。「コンプレックスをバネにして努力しようぜ!」というレスが、先のインスタのやりとりの最後であった

 

 さて、「コンプレックスをバネにして努力を重ねる」−−−この言葉に、僕はなんだか違和感を覚える。努力を重ねることで、覆ることなら、その意味はあるだろう。しかし、バネにして努力を重ねても解消されないコンプレックスがある。

 例えば学歴がその最たるものだ。学部に入学以降いくら努力を重ねても、東大に入れなかったという事実は変わらない。職業社会で生きていく限り、学歴は一生ついてまわる。 「コンプレックスをバネにして努力を重ね」ても、コンプレックスが消えることがなければ、ただひたすらにコンプレックスに追い立てられる生活が待っている。東大にコンプレックスを抱く限り、どこでどのように成功しようと、東大に入らなかった/入れなかった事実はかわらない。

 そもそも、「コンプレックスをバネにして」というような言説が登場するのはなぜかを考えてみよう。それは、コンプレックスに囚われて生きることが辛いことであるからだ。それは辛く、苦しい。世の人の大部分が気にせず生活を送っていることに関して時に過剰に気にし、頭の中の理想の自分と現実の自分との乖離がちくちくと胸を刺す。

 

 「コンプレックスをバネにして」は、本来そのようなコンプレックスを解消させようとして生まれて来た言説なのだろうが、実際には、むしろコンプレックスに駆動された終わりなき戦いに人を追いやっているように見える。なぜならそのような言説を享受している、強いコンプレックスに悩む人の、コンプレックスの対象とは通常、逆立ちしても得られないものであるからだ。得られるものなのだったら、とっくに得ているだろう。

 コンプレックスをバネにして社会的成功を得る−−−結構な話だ。しかし、貴方のコンプレックスは、そうした成功を得て、解消するものなのだろうか。解消しないのだとしたら、一体何のためにそれをバネにしたのだろう。外から見た「成功」を手にしたところで、貴方の内的欲求は満たされない。貴方は誰のために生きているのか、と思う。

 重要なのは、だから、コンプレックスから抜け出す方途を探ることだ。第一に、それをバネにすることで本当にコンプレックスから抜け出せるのかを考える。抜け出せるなら、確かにそれでよい。けれど大抵の場合、コンプレックスをバネにしたところで抜け出せない。独り相撲になるだけだ。

 

 人は社会に出て、生活をしていかなければならない。口を糊する手段を得なければならない。そのために、社会に自分を合わせていくことは重要だ。だから、その限りにおいて、コンプレックスを上手に利用するということはありうる。そのままでは努力しない自分を奮い立たせるために。

 しかし、それが終わった後は、それを見つめ直し、解消していく時間が必要だ。決して得られないものに拘った時間を振り返り、その営みが何になったのか、ということを冷静に算段したあとで、改めて自分の生を生きていくことを考えなければならない、と思う。

 

 僕の考え方は、「若いうちにがむしゃらに努力する」ことを回避する怠け者の思想に感じられるかもしれない。まあ確かに僕は怠け者なのだが、「がむしゃらに努力する」ことと同様に重要なことに、「がむしゃらに考える」ことがあるだろうとは思う。大多数の努力は、考えなくてもできる。むしろ、考えないために、「がむしゃらに努力する」ことがあるのではないか。