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東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

社会と個人〜二項対立とスペクトラムとそのあいだ〜

ツイッターなんかを見てると、たまに架空の対義語をつくったりしてる言葉遊びのようなものがタイムラインに流れてくるけど、私は小学校のころ、類義語と対義語の勉強をしていたとき、「社会」という言葉の対義語は「個人」であると習って、そこそこ驚いた記憶がある。

 

今思えば、類義語や対義語を誰が決めてるのだろうか、辞典編集者なのか、そのドリルをつくった人なのか。あるいは、日本類義語⇆対義語協会、みたいな機構があるのかもしれない。とにかく、個人と社会が対義語の関係にあると聞いて驚いた、というか、そういうことにしてるんだ〜、みたいな感慨があったという方が近いかもしれない。対義語はその語と逆の意味を示す熟語と習っていたから、納得できるようなできないような気分を味わった。

 

さて、通例として高校や大学や大学院を卒業したりすると、社会人になったりする。たいていは学生ではないということが強調されているから、例えば今また国語の参考書を開いて対義語の単元を学習して、学生の対義語は社会人ですとか、社会人の類義語は大人ですなんて書かれていたりしたら(そんな参考書はありえないけど)、じゃあ学生の類義語は「子供」になるってことなんでしょうかとか思いつつも、個人の対義語は社会と知らされたときほど驚愕しないだろうし、あまりこだわらなければテキトーにまあそうかもしれないですね、と流せそうなレベルな気がする。

 

両者の対義語関係がなかなか腑に落ちなかった幼少期の私は、その違和感を上手に言語化できなかったか、あるいはしてたのかもしれないが忘却の彼方(「子供」はこういう風に軽んじられがちですね)なので、今の私がどういう言語感覚でそれらの語をとらえているかというと、なんというか個人の集合が社会だと思っているのだと思う。一部と全体の関係として考えていて、個人たちを総称的に社会と言えるという風に感じる。でも、ここまで考えて「個人」に含まれる「個」という漢字は単一性を示す文字だし、単なる一つというわけではなくその単一性を強調してるわけだから、そういう意味では、"a man" というより"one woman"みたいなニュアンスなのかなとか思えば、(まだ個人的には納得いかないけど)対義語としての説得力は増しそうな気がする。