On the Homefront

東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

「東大を舐めている全ての人たちへ」を読んで:勉強に面白さを感じるということ

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 江藤です。上記記事を読み、久々にこのブログを更新しようと思うほど、そこはかとなく辛く感じました。

 確かに東大合格までにはかなりの訓練と、それをこなすだけの時間・エネルギーが必要なことは事実です。しかし別にそれは一から十まで苦しいものではないはずです。人によってその割合は違うだろうけれど、勉強自体を純粋に面白いと感じるタイミングがあるはずです。それは「タイミング」と言うほどに刹那的で限られたものでなく、より恒常的なものである可能性ももちろんあります。

 しかし、上のブログでそうした勉強の面白さへの言及が皆無なのは衝撃的でした。と同時に、私の中で腑に落ちなかった経験に関し、納得することができもしたのです。

 

手段としての勉強

 上記ブログ執筆者のtonoikeさんは、ブログを見る限りでは、勉強を競争のための手段としてとらえています。高校の一時期はそれから完全に手を引いていたというし現在も留年の危機というのですから、基本はあまり面白いと思っていないはずです。

 しかしだからといってやらないということにはならなかった。なぜならそれは競争の手段だからです。競争をする以上、それは自然にやるものである、ということです。だからそもそも勉強から面白みを感じ取ろうという姿勢自体が希薄な気がします。それが面白いか面白くないか、したいかしたくないかを脇においた結果、以下のように自分の選好というものはなくなっていってしまいます。

正直、負け惜しみです。僕は特別に強くこだわる対象を持てなかった。他の、楽しくて何かに打ち込んでいる人のように積極的に打ち込めることが無かった。もしかしたらあるのかもしれないけど、それよりも比較的苦しくない領域で勝負した方が良いような気がした。「好きなことして生きていく」ための努力をできるほどの「好きなこと」なんかそもそもなかった。そういう感じです。

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 で、そういえば、私が家庭教師をやっていた子もそうだったなと思い出しました。かなりきちんと宿題をやってくる。長い時間勉強をできる子でした。しかしいつも「勉強を面白いと思ったことはない」といい、「どうでもいい」が口癖でした。私はなんとか勉強の面白さを伝えようとしたのですが、ピンとこないようでした。

 そこで今回の記事を読みつつ思ったのですが、ピンとくるもなにも、彼は勉強に面白さとか求めていなかったのでしょう。tonoikeさん同様に、それは競争のための手段であるからやっているというだけ。

 なるほど、私も完全に手段として扱う行為は多いです。例えば今でも思い出すのですが、小学校低学年の時私は歯磨きが嫌いでした。しかししつけられた結果、頑張って毎日していました。

 そうした努力もむなしく、当時ちょくちょく虫歯を作っていたので、私は歯医者に通っていたのですが、そこの歯医者さんは意欲的な若い男性で、どうしたら歯磨きを楽しくできるかと何度も説明してくれました。

 ・・・しかし正直私はピンときませんでした。幼い私にとって歯磨きは虫歯を免れるための手段であり、別にそこに面白さとか求めていなかったから。虫歯にならないために工夫するつもりはあっても、面白くしようとは思いませんでした。

 全然的外れかもしれませんが、そもそも勉強に面白みを求めないというのはそういうことかもしれないなと思います。例えば私が家庭教師をやっていた生徒の子は、徹底的に、勉強をそれが生み出す効能の観点からやるべきものとご両親に教え込まれていました。

 つまり、彼の中で勉強は完全に社会的成功を収めるための手段だったのです。ここはおそらくtonoikeさんとそう変わらないでしょう。

 

勉強に面白さを求めるタイプ

 私自身は面白くなければ勉強を続けられない人間なので、私の生徒くんやtonoikeさんのような勉強の捉え方は私にとって結構驚くべきものです。面白くなくとも結局仕方なくやる生徒くんやtonoikeさんの方が受験で結果を出すには有利かもしれません

 私は高二くらいの時に一部の勉強が面白く無くなってしまい、やめてしまいました。浪人しました。その時に思い知ったのですが、私は面白くない勉強はいかに自分の人生がかかっていようと長くは続けられないということです。

 もちろん、他の多くの人と同じように、競争の中で自分の順位を上げていくことのゲーム的な面白みはよくわかっています。競争の中で自分を伸ばして来ることができたという自覚も強く持っています。だからその点ではおそらくtonoikeさんと大きくは変わりません。ただ、勉強に面白みを求めるか否かという点は、程度問題かもしれませんが、だとしてもかなり程度の差があります。

 結局私は浪人しても面白くない勉強はできなかった。もちろん一教科丸々捨てるなどということはしませんが、数学で言えば平面図形、確率、整数問題の分野はセンターレベル以上は解けなかったし、世界史も論述問題の対策というのはつまらなかったのでほとんどしなかった。現代文も漢文もその調子。でも面白くない勉強を捨てたので毎日本当に勉強が面白かった。深いところで満ち足りたような気分を味わえていたのでした。

 

勉強は東大生の一部

 思春期に8000時間も費やすのですから、勉強という行為は否が応にも東大生の一部になってしまっています。そして、そうした自分の一部を手段としてしか捉えられないだとしたら、それはきつい、辛いと思います。自己を手段としてしか捉えられず、その固有性を自分自身が認められていない辛さです。

 そしてそれは多くの東大生が共有している辛さではないか、と私は思います。一時期、自分が自分自身を周囲から差別化するための強力な手段となっていたという事実。そして、それをこれからそのまま続けていくのか、どこかでそうしたことから決別して、自己の固有性を探る方向に行くのか。前者の場合、自己の固有性からはそっぽを向き続けることになる。後者の場合、自己の固有性を求める運動を社会化ということと両立させなければならない。そこには葛藤もあるだろうし、分裂もある。

 といったところでこのブログは文科三類の学生が書いているので、ふと文三に戻ってくるのですが、文三の学生にはやはり、自己の固有性にそう簡単に蓋をできない人が他の科類よりも相対的に多くいる気がする。そして上で少し言及したのですが、その方向性は基本的には社会化と矛盾すると思う。だから私の周囲には就職してもやめたり、そもそも就職に方向付けられなかったり、それ以前に大学をサクッと卒業できないという人たちがいる。

 彼らは彼らなりの血を流しながら、自己の固有性を捨て去ることなく社会の中で生きようとしている。残念ながらほとんどが失敗だけれども、失敗するということ、そこに軋轢が生じるということ自体が、彼らの固有性を指し示しています。しばしば私はそうした人たちを好奇の目で見つめる方に、自己を置いてみたりします。しかしそれは全然人ごとではありません。

 例えば私は仕事をしています。先に私は面白いと思う勉強しか受験の時に身をいれてしなかった、と述べましたが、当然仕事においては一から十まで大きなミスのない形で満遍なく一定の水準に持っていかなければなりません。選り好みはしていられないのです。仕事は総合点勝負ではないから。数学で100点とったので、国語は30点でいい、どうせ合格点は120点だから・・・ということは決してないのです。

 そこでマルチな能力を身につけるのか、それともそうではなく、マルチになりきれない(能力的に、というより、それに価値を感じない、あわせていけない)自分が受け入れられる場所を見つけるのか(必ずしも職を転ずるということではなく)、ということは上の問題に大きく関わっています。

 

終わりに

 最後にはやや脱線気味になりましたが、私は東大に6年以上いながら、tonoikeさんのようなタイプの人に出会って来ませんでした。ちょっと想像すれば居そうなものなのに全く思い当たりませんでした。

 なぜだろうと考えてみると、私は勉強を手段として捉えることができない人間であるからです。そう言えば、就活の時に多くの人が一度は受けてみる外銀やコンサルを全く考慮に入れなかったのも、(その見方が正しかったかどうかは別として、少なくとも当時は)勉強で培った知力を社会的な成功のためのステップにしたくなあと思ったからなのかもしれない。

 これは当然私の狭さであるわけです。なぜならそれを純粋に手段として捉えた方が得することもいっぱいあるから。しかも、別に私も場合によっては(あまり意識的にではないかもしれませんが)そうして来ているはずだからです。

 教養学部の私は教養は人間力を涵養する、というような一種の神話に囚われているのかもしれません。もちろん、そこには確実に一定程度の真実はあります。しかしそうではない世界も厳然としてある、ということを知りました。その評価に関しては、判断留保。まあ、もう大抵の読者には上述で明らかだけれども