国分拓『ヤノマミ』を読んだ
今日も読んだ本の紹介。タイトルにある『ヤノマミ』という本は国分拓というNHKのディレクターが書いたアマゾンの奥地にいる原住民族への取材体験記である。もともとはその取材が元になってできたドキュメンタリーの方が先に世に出て、話題になったため、取材体験記が出版されたということらしい。哲学科出身の友人が手に取っていたのを見て、気になって読んで見た。
「少しずつ周りの空気が濃密になっていく」
この本のアマゾンのページの商品紹介では「読売新聞 朝刊」 2010/5/30号に河合香織氏がよせたコメントが引かれている。
「映像よりもむしろ深く鋭くヤノマミに迫っている。読み進むにつれて、少しずつ周りの空気が濃密になっていくかのようだ。」
このコメントは大変良いコメントと思う。まさにその通り、これを通勤途上の京浜東北線で読んでいたとき、私は自分の周囲の空気が固まって行くような緊張感を覚えた。日常生活の中で自明視している、私の結ぶ世界との関係のあり方とは、全く異なる形の世界との関係のあり方があるのだなと目を開かされるような気分だった。
嬰児殺しの場面に注目
作中で一番緊張感が高まるのは、嬰児殺しの場面だろう。ヤノマミ族の価値観では、生まれてきた子供は精霊であり、母親がそれを育てる決意をして抱き上げるまでは人間ではないということになっている。
子供を精霊のまま神に返すか、人間として育てるか、その決定は母親に委ねられており、前者を選択した場合、母自身の手でそれを殺したのち、遺体をシロアリの巣の中に入れアリ達に食べられるがままにすることになる。
出産直後の女性(年齢的には14歳くらい)が産んだばかりの子供を精霊のまま返す選択をし、実行に移す際、作者国分さんはその場面からどうしても目をそらそうとしてしまう。直視しようとしながら、一方で見るにたえないのである。対照的に、国分さんと行動を共にしていたカメラマンはあくまでそれをカメラにおさめようとする。
なぜ私は仕事に向かうのだろう?という気分になる
この辺りの、私たちが前提としている文化的規範の底を抜いてしまうような出来事に相対した時の二人の対照的な行動二つが、二つともあわさって、読み手である私の中の人間性をじくじくと刺激してくる気がする。なぜ私はこうしてスーツを着て、1時間程度かけて会社に通い、朝から晩まで働いているのだろう?と問い直したくなる気分になる。自分が意識的・無意識的に則っているルールが剥ぎ取られた地点がそこに描かれているからだ。
文化人類学的な本は最近読んでいなかったが、最後に読んだレヴィ=ストロースの『野生の思考』は、そう言えばえらく面白かったな、と思い出す。
- 作者: クロード・レヴィ=ストロース,大橋保夫
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1976/03/31
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ほっとくと小説ばかり読んでしまう私だが、もっと異なる分野にも手を広げたいと思う、が、もう若くはないし、読める本にも限界がある…。この限界を持たざるを得ない悲哀とどう付き合うかが最近の課題。