On the Homefront

東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

地方コンプレックスが強すぎてつらい その2

 こちらの続き。

queerweather.hatenablog.com

 ここで私はあえて「田舎」という言葉を使ったけれども、これは具体的に人口が何人以下とか、この施設がないとかあれがないとか、その内容を詳細に定義してもこの際意味のないものだと思っている。田舎とはそこにいるものの意識の問題だ。

 私は自分の生まれ育ったところが田舎だと思っている。このブログで私は一番最初に、属性を分断するような考え方は嫌いだと言ったばかりなのに、早速こうやって「田舎」と「非・田舎」を二項対立的に配置しようとしているし、その中で自分は確実に「田舎」の側に属している、とさえ思ってしまっている。

 

 ものすごく乱暴に言うと、東北の人間は、東北地方は日本の中で最も「田舎」であり、価値が低く、遅れていて、何もないつまらない場所なのだ、と思って生きているのだ。

 「まだ東北でよかった」などという誰かの発言も記憶に新しい。これを誰がいつどういう意図で言ったかという個別の問題は置いておくとして、この件をニュースで聞いたときに私が感じたのは、悲しいとか憤りというよりも「またか……」という絶望感だった。発言自体にというよりも、そういう発言をついうっかりできてしまえるような土壌がそもそも存在することに、絶望感を覚えたのだ。

 東北地方は重要性が低い、ということは、現地の人間にもそれ以外にも、悪意なく、さりげなく、確実に刷り込まれている。もちろんこれは冒頭で述べたように、実際にその土地がどの程度の重要性を持っているかという具体的な問題ではなく、そういう意識が共有されているという話である。

 東北は、自分たちは他地域から田舎だと思われているのだ、という意識の強さにおいて、確実に田舎だ。それが私は歯がゆい。

 

 フィクションの中で、野暮で愚昧でぶっきらぼうな田舎者のアイコンとして、東北方言を模した役割語がどれだけ普及していることか。もちろん「標準語」に対して地方語が過剰にキャラクターを強調した文体として使われるのは、別に東北方言に限ったことではない。それでも、九州方言(のようなもの)を話すかわいらしい女の子や、関西弁(っぽいことば)を使うスマートな青年がありふれているようには、東北方言(らしい口調)は登場しない。必ず、蒙昧で洗練されない色がつく。今時ネイティブアメリカンのキャラクターに「インディアンウソツカナイ」みたいな片言をしゃべらせるなんてことは誰もしない、そういう共通理解はあっても、東北出身の人間や、あるいはどこか宇宙の田舎から来た生物に「東北方言らしきもの」をしゃべらせて笑いを取るのは普通の表現手法というわけだ。

 逆に、フィクションもノンフィクションも、何かがある、あるいは何かがあるということが話題になるのはいつも東京だった。ヒーローはだいたい東京にいるし、ふつうの男の子や女の子が住んでいるのも東京。そして例えば、東京っ子のスネ夫は自分の手に負えなくなった「ペット」の岩を、はるか辺境の地である青森に捨ててくる(てんとう虫コミックスドラえもん』第37巻「かわいい石ころの話」)。小さい頃から、東北の地名が取り立てて物語に登場する場面といえば、そういう例ばかり見せられてきた。

 

 誰も東北の人間に面と向かってお前は田舎者だ、とバカにして言うわけじゃない。だけど、東北に田舎という価値付けを行うことはずっと変わらず、当たり前にされているまま。だから、「まだ東北でよかった」と言われて、まあしょうがないよね事実だもん、と東北の人間自身が納得したとしても、当然のことだと思う。否定するには、あまりにもそういう考え方に慣れ親しんでしまっている。

 私が実際に東京に住んで分かったことは、本当は東京には何でもあるというわけではない、なんてことではない。地方にあるときはあれほど中央の存在を意識せずにいることはできなかったのに、中央にあっては地方などいともたやすく意識から消え去ってしまう、ということだ。これだけ鬱屈とした気持ちを溜めこんできたはずなのに、東京で暮らす人間の一人として生活していると、いかに東京の人間が東京≒日本だと思い込んで暮らしているかということを忘れてしまいそうになる。全国メディアのトップニュースが東京のローカルニュースでも何も驚かなくなる。地域ギャップの再生産に加担すらしてしまう。だから、東京には本当になんでもあるのだ……もとい、東京にあるものしかない、ように見えるのだ。

 

 もちろん、だからといって私は東京になれるわけではない。前回の話の通り、非・田舎で生まれ育った人との間に分断を感じずにはいられなかった。私は何も知らず、何も持っていなかった。ただ、それは私が悪いんじゃなくて、私の生まれが田舎だからなのだ。正確には、東北が田舎だから悪いのではなく、東北に田舎というレッテル貼りをする非・田舎があるから悪いのだ。そしてそう考えるとき、私は既にその田舎というレッテル貼りを受け入れてしまっている。東北の人間である私に染み付いた田舎根性はもう剥がれない。

 地元東北に対して過剰に卑屈になりたがり、そのくせ他地域から軽視されることにはえらく敏感で、東京は何でも持っていていいなあと羨ましく思いながら、持てるものの傲慢さを攻撃してしまう。ねじくれた地方コンプレックスだ。

 東北が、東京がと言ってきたけれど、それはたまたま私がそこに住んでいたからその地名を挙げただけで、例えば横浜にはコンプレックスを感じていないのかとかそういうことを議論したいわけではない。他の地域の方で、東北なんか田舎で当たり前なのに今更何を、と思う方がいるかもしれないし、あるいは俺の地元はもっと田舎だ、と思うことがあるかもしれないが、いずれにしろ「田舎」と非「田舎」にギャップがあるという事実を補強しているだけだ。私はギャップをなくしたいのに、この問題に限っては、どうしてもその考えを捨てることができない……

 

 最後に、ちょっと気に入っている本があるので紹介したい。増井元『辞書の仕事』という岩波新書の一冊。この本、第4章の「不適切な用例」という節の冒頭で紹介されている事例が、もう大好きで仕方ないのだ。

 岩波国語辞典の「くんだり」という項目の中に「青森くんだりまで来た」という用例があった、という話。辞書を引いた地元の中学校の先生から丁寧な手紙が届いて、編集部一同「胸のふさがる思いにとらわれ」たという。

 読んだとき、もういっそ、してやったり!と思いましたよ。あーやっぱり俺の被害妄想じゃないんだ、事実なんだ、言質とったぞって。東北が田舎だっていうことは、辞書を作る人も誰一人そのことに気がつかないで載せちゃうくらい、当たり前のことなんですよね。辞書を引く人間の中に青森の人間がいるなんて誰も思わないくらい、どうでもいい土地って思っていただいてるんですよね。例に挙げられたのがまだ青森でよかった。

 

 私、地方コンプレックスが強すぎて、つらい。