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東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

物語る力/創作の力とは何か

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 最近、twitterで自分と同じように、中高の教員をしている人をフォローするようになった。そうしてフォローした中の一人がつぶやいた以下のようなつぶやきが、昨日私のタイムラインに投稿された。二つの企業に内定した卒業生に対して、教員をしているツイッタラー、「あすこま」氏が投げかけた言葉に関するものである。

 

 

 上記のつぶやきに関し、僕は違和感を覚えたのである。

 

 

「「物語創作」のパワー」とは

 違和感を述べる前に断っておけば、僕は上のあすこま氏の、生徒の背中を押すような指導のあり方と、生徒がどのような選択をしようが「自分の人生もなかなか捨てたもんじゃない」と思うことができるようにあれかしと願う気持ちには好感を覚える。教師はそうあるべきだと、無責任な同意を送りたくなる。

 

 しかし一方で、「「物語創作」のパワー」を自分の人生を肯定することに結びつける氏の議論には首をかしげてしまう。

 何か語ろうとする事柄があり、それを語りたいという欲望があり、そしてそれを仔細に語りつくそうとすること。それを徹底的に行おうとすれば、多くの場合、当初自分の想定したものと異なるような結末に至るものではないだろうか。もしくは、何ということのないはずの細部や断片が思わぬ意味を持ち始めて、物語が単一的な線を逸脱し、自己瓦解に導かれるものではないだろうか。

 「「物語創作」のパワー」は、自分の生き方を、自分にとって肯定的なものとして認識するための、単なる技術に還元されるものではない。そう僕には思われるのだ。

 

 

 創作は必ずしも人を幸せにしない

 おそらく、あすこま氏は、物語創作を授業に取り入れることで、生徒たちが「自分の人生もなかなか捨てたもんじゃない」と思うことができるような技術を生徒たちに授けたいと思っているのだろう。氏の教育実践との関わりから、上のつぶやきは読まれるべきであると考えられる。

 もちろん、それができるのは一つの力だ。いかなる状況にあっても、「「物語創作」のパワー」により、「捨てたもんじゃない」と思えるのなら、その人は大丈夫だろう。国語科の目的に「生きる力」の養成を置くのであれば、あすこま氏の主張は一定の正当性がある。

 

 しかし一方で、僕自身は、それをどうしても行うことができない生徒の立場に立ちたいと思っている。

 そもそも、それができない生徒らは、「「物語創作」のパワー」を持たない故に、そのような状態に陥っているのだろうか。むしろ、事態は逆であろう。

 「捨てたもんじゃない」と言い切ってしまうことに違和感を禁じ得ず、常に「本当は自分の生などどうしようもないものなのではないか」という不安と戦う生徒の、その不安もまた、「「物語創作」のパワー」により生じてきている。なぜなら、彼らは、「捨てたもんじゃない」で語りを終えることができず、さらにまた、語るべきことがらを見つけてしまうからだ。彼らは創作のパワーを有するが故に、創作が終わってもなお創作を続けるのである。

 自己の人生を肯定的にとらえたいという自分の中の欲望や、「お前は自分が幸せでないとでも言うつもりか?」という周囲の無言の圧力。それらから不可避に生まれてくる、「「捨てたもんじゃない」人生」という名の支配的な物語は、都合のいいところで終わることに争い、終わってなおも創作しようとする強靭な語りの力の前では往々にして、掘り崩されてしまう。

 

 物語の創作を、徹底的に行おうとすること。それは必ずしも人を幸せにしない。それはむしろ、幸せと自認していた生活が思いがけず抑圧していたものを暴露することになりかねない。結局、創作の力の極北には、創作が創作でなくなってしまう地点がある。

 

 

創作を破壊する創作の力

 そこまでいかない段階で、自分にとって都合の良い物語を作れるような技術を学び取り、人生を幸せに生きていこう、という主張はよくわかる。と同時に、物語る力の欠如ではなく、むしろ物語る力の過剰によって、それがどうしてもできない人たちがいることが、繰り返しになるが、僕には気になってしまう。

 そして、僕自身の中には、そのような物語る力の過剰さとともにある生徒らに対する願いがある。

 それは、「本当のところ自分の人生はどうしようもないもの(捨てたもの)かもしれない」という不安を持ちながら、「しかしそれがなんだというのだ、それでも僕は生きる」といきりたって生きていってほしい、という願いだ。「なかなか捨てたもんじゃない」というような脆弱な物語でかろうじて生きながらえるのではなく、否定性の中でも立ち上がって欲しい。どうか語るのをやめないで欲しい。

 

 物語る力の過剰さの中で、いくつもの物語を最終的に完結させずに終わる子らは、綺麗にまとまった物語のうさんくささを知るだろう。そうして、自分を究極的な局面で生かすのが、いま自分を支配している物語の枠組みの論理から考えた時、むしろ違和感を感じさせるような言葉だということがわかるはずだ。

 どういうことか。

 例えば、物語があなたを破滅に導こうとする際に「それでも僕は生きる」と生を引き受けるときの、「それでも」という言葉は「どうしようもない生」という不安を抱えた時の「なら死んだ方がマシ」という自然な帰結における「なら」に比べて、順当な接続ではないという意味で、物語内論理に従わない接続をもたらしている。しかし、そこで「それでも」と言ってしまうことで、私たちはその地点から、また別の物語を立ち上げることができる。

 

 支配的な物語から逃れ、新たな物語、自分自身の物語を開始することは、支配的な物語のストーリーラインから見れば奇妙に思われるような接続、または文法の破格によってもたらされる。それは、既存の物語の枠組みから見た時、むしろ話者の創作の力の欠如・瓦解を意味する言葉の使用だろう。

 しかし僕は、それもまた創作の力に他ならないと思う。それは、すでに創作されたものに対する破壊の一撃を加える。体裁の良い物語、耳障りのよい物語を生産することとは少し異なるところにある、物語の破壊と表裏一体の物語る力。それを僕は、幸せな物語に容易に安住できない子らに、身につけていって欲しいと思うのである。

 

 

 

アニメFree!、自由、規範(寄せられたコメントへの応答)

 私が以前投稿した記事にコメントを寄せてくださった方がいらっしゃいましたので、その質問への返答をしたいと思います。当該記事はこちらです。

 

queerweather.hatenablog.com

 

 

 頂きましたコメントを以下に紹介します。

 


>>nittyoku

 こんにちは。ご記事興味深く拝見しました。私は学生です。
 自分はFree!を見たことがありません。その前提の上で、ご記事に関して二つ質問したいです。

「その過程で社会通念から大きく外れてしまっても、自分にとって生きている場所からしか生き続けることはできず、それでも結果として未来へむかって生き続けることとなる。自分の言葉でまとめてしまうと、そのようなキャラクターたちの姿に、私は「自由」を感じ、いたく魅力を感じたのだと思います。」

とありますが、この部分、果たして「自由」なのかなと疑問を抱きました。「それでも結果として未来へむかって生き続けることとなる。」というのは、強いられているようにも取れます。
 中江さんがここにどのような自由を見ているのかをお聞きしたいです。

「現在の日本においては一般的な、男性から女性への肉体的な欲望が当然視されながら、女性の欲望については抑圧しているという性的規範の逆と言えると思います。」
 
 と書かれていますが、腐女子による男性身体への欲望も、また女性身体に欲望を抱かない草食系男子の存在も、周知のものであり、これもまた、現代の日本において「一般的」な規範のようにも思われます。この点に関してご意見いただけますか。


 よろしくお願いします。

 

 

 nittyokuさん、コメントありがとうございます。

 

 さて、まず①から答えていきたいと思います。「自由」という言葉の定義をどの程度しっかりしているかということが問題になると思います。まず、私はブログの記事ということもあり、特定の分野における用語というよりあくまで一般的な意味あいで、用いました。要するにかっちりした定義で使ってはいないのですが、それゆえ文脈から寄せたニュアンスのようなものがあると思います。

 

 付言して説明するならば、現在において身体というものはどうしようもなくあり、生活している現在という時点は逃れられないものですし、身体を動かして何かをするとき物理法則には従わざるを得ません。しかし、心の中では、過去は現前性を帯びることがありますし、人々がそれぞれに内面化している社会のルールに、行動、自分がなにをするか、を縛られることなく生きることは可能です。身体というより精神の自由。行動というより内心の自由。そういったつもりで書いたことを付け加えさせていただきます。

 

 また、コメントから伺うに、nittyokuさんは「自由」を「強いられる」ものの対極の意味で使ってらっしゃると思われますが、それでしたら、アニメを最後まで見ていただけたらわかると思うのですが、主人公は強いられるというより、いわゆる自由意志で、未来を選択し、決断しました。記事中でも「結果として」と書きましたが、未来へ向かって生きていくにあたって「強いられる」ことの表現はないのではないかと考えます。

 

 頂いた質問の②についても今日回答したかったのですが、溝口彰子さんの『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』と北田暁大さんの『社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法基準』を読み直してから書きたくなったので、次回ということにしたいです。

 

ともあれ、nittyokuさん、コメントありがとうございました!

今学期の雑感

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 毎週日曜日、この時間になると、「明日からまた仕事か」という気分になる。教えている生徒たちが休み中にどのように過ごしているのか、そのようなことを想像し、かつまた時にはにやけながらも、「明日の一限は…」ということを一つ一つ考えはじめ、頭を仕事に戻していく。

 最初の記事で書いたように、僕は今、中高一貫校の教員をしている。今日はそのことにつき、つらつら書きたいと思う。

 すでに広く知られているように、学校は労働環境としては決して楽ではない。新米職員で、部活を任されていない(正確には、二学期まで「留保」されている)けれども、にもかかわらず、それなりに辛いのである。日々の業務で労働時間は大抵埋まってしまうが、それ以外のイベントに関わる業務がここに挿入されてくる。

 一学期は、新しく入ってきた高校一年生向けのオリエンテーション合宿を運営するとともに、裁判所への社会科見学を担当した。どちらも本当に面倒だった。

 とはいえ、前者を命じられたその瞬間は期待に胸を高鳴らせたのであった。というのも、僕は合宿という学校行事が大好きな生徒だったからだ。

 合宿の夜にはいつも楽しいことがあった。見回りの先生たちを気にして息を殺しながら、それでも大騒ぎしたり、寝ている友達にいたずらをしたりと色々なことが思い起こされる。いつもと異なる時間がそこにひらけていて、それを共有している共犯者の喜びが、僕と友人たちの間にあった。

 ただ、教員としてそれを引率するのは正直、もういいや、という気分である。様々な雑用の集積と、気の休まらない夜。「そうか、僕は生徒を寝かしつける立場になったのか」と今更ながら驚くような思いで、眠い目をこすって一つ一つの部屋を回った。

 「寝るか、寝ないで遊ぶかということは僕たちの自由だろう」と正面から論戦を挑んでくる生徒もいた。「きちんと眠らなければ、明日の行程に差し支える。この合宿は、決して遊びで来ているのではないのだから、夜休むというのもプログラムの一つであり、義務である。」という風に応対した。そしてこの応対をしながら、僕は自分のあまりにも教師然とした物言いにうんざりしてしまったのだ。うんざりしながら部屋に帰った。

 教員には個室が与えられていて、自分が生徒だった頃の、ワクワクする深夜の時間とは全く隔たった、孤独と生活の香りのする空間がそこにある。1時を回っているのを時計で確認してから、次の日の行程を改めて見直し、訪問先のチケットが全員分あるかを数える。純然たる労働であった。

 後者の、社会科見学のアレンジも、面倒といえば面倒な仕事だった。連絡を取って人数を告げ、当日の諸注意を聞き、あらかじめそれを周知して、連れて行く、ということに話はおさまらない。

 学校の枠内でやっている以上、何らかの教育的課題を設定することは必須で、それに連動して総合学習の時間に調べ学習をやらせる、その計画を立てなければならない。事前学習のために弁護士をやっている卒業生に連絡を取らなければならない。規程に乗っ取り、呼んだ弁護士の卒業生にいくらの謝金を払うか決定しなければならない。それに対して承認印をもらうために管理職まわりをしなければならない。

 うーん、うんざり。生徒のためになれかしと思うのだが、引率はとにかく注意を払わなければならないことが多すぎて、生徒の反応を伺う余裕などないのだ。 

 最後に、授業の方だが、今学期至極オーソドックスに黒板を使って教科書の文章を皆で読んでいくような形で進めた。熱心に聞いている生徒もいれば、全く関心のなさそうな生徒もいた。よろしい、これが学校である。

 授業に関しては、学生時代もバイトでことあるごとにやっていたこともあり、想像通り、という感じだった。

 ▽

 以上で終わりで、今は期末テストを作っている。本当になんの工夫もなく、列挙して終わりなのだが、そう言えば先週、ちょっと変わったことがあったので、それだけ書き留めておく。

 先週金曜日、僕が担任をしている教室の隣のトイレでコンドームを拾った。開封済みのものが、だらりと落ちていて、僕はためらうことなく素手でそれを拾った。生徒たちの数人が、それを袋から開けて、びろびろとだらしなく振り回して遊び、そのまま落としたかなんかで、そこに落ちていたと疑いもしなかった。

 だから、「男子校だよ、こんなの持っていてどうするの」と独り言まで言ったのである。そして言った直後、「男性同士の性交渉でも使うのでは?」と思い当たり、固まってしまった。

 もしその独り言をたまたま誰かが聞いており、そしてたまたまその子が「男性」とは異なる性自認を持っていたら、僕の独り言は問題になっていたかもしれないと思う。いや、もう時代が時代だから、どのような生徒に聞かれていても、問題となっていたかもしれない。幸い、誰も聞いていないようだった。

こういう事柄は本当にデリケートに扱わなければ、と感じたのだった。

地方コンプレックスが強すぎてつらい その1

 先日の江藤の記事に見るように、「東大とはいえしょせん文三」というような風潮があること自体は確かにそうかもしれないと思うが、私自身はそのような意見をやや他人事のように感じてしまう。ここでその原因を出身地域と結びつけて考えてしまうのは、私がコンプレックスを意識しすぎるせいだろうか。

 そもそも入学当時から今に至るまで、私は文三であることを理由にした批判に直面した記憶がほとんどない。田舎であれば「文三だろうがとにかく東大」という意識の方が圧倒的に根強いはずだもの。私は田舎の生まれだから、そう感じてしまう。そして、「田舎の生まれだからそう思う」のだと、思ってしまうことをやめられない。

 私、地方コンプレックスが強すぎてつらい。

 

 生まれも育ちも東北の地方都市で、大学に入学してからはずっと東京にいる。出身地に関するコンプレックスはもともと私のどこかにあったのだろうが、上京して以来ことあるごとに顕在化するようになった。正確には「上京して」なのか「大学生になって」なのか、あるいは「東大に入って」なのか、どう表現するのが適当なのは判断しかねているが、とにかくそのタイミングでコンプレックスを意識せざるを得なくなることが一気に増えたのは間違いない。

 

 入学したばかりの私だったら「しょせん文三」なんて恐れ多くて言えたもんじゃなかっただろう。大学名の前に、科類の優劣であれこれ言うなどという考えが起きるはずもなかった。文学や歴史にものすごく詳しい人、志の高い人が実際にいるんだろうなと期待していたし、まあそうは言っても私みたいなものもいるくらいなのだから、みんながみんな雲の上なわけでもなく、それなりにてきとうにやっていけるんだろうなという気持ちもあった。

 現実はそんな理想とはまるでかけ離れていた、が仮に事実だったとしても、そんなことはほとんどどうでもいい。致命的だったのは、現実はそうではないんだ、そうじゃないのに期待なんかしちゃって……という、冷笑的な態度が支配的だったことだ。

 そういう態度がスタンダードだった。そういう態度がスタンダードである、という共通認識が既に出来上がっていた。俺は戸惑った。みんなもう少し同じように戸惑っているのだろうかと思ったら、戸惑っている素振りを見せるようなやつを笑うという立場が、取るべきスタイルとして周知のものになっていた。少なくとも自分にはそう見えた。

 そんなこと聞いてねえぞ、大学生とはこーいうもの、ということまであらかじめ知った上で大学にやってくるものだなんて。地方公立高校出の私は、大学より先のロールモデルになる存在が身近になかったし、またあえてそのような情報を得ようともしてこなかった。結局、俺が周囲の態度についていけないのは、世間知らずの田舎者だからなのだ。何も知らないから、誰もしないような非現実的な理想を期待して、一人で戸惑っているのだ。

 

 このへんのことは痛みが記憶に新しいので、まるで客観的な判断を下すことができない。みんなどう思っているものなのか。そんな若気の至りのようなスタイルを真に受けていちいち感傷的になっている私がイタいだけか、それとも、そういう冷笑的な態度もある意味では正論だったと思っているのかしら。

 

 いっぺん仕切り直して続きます。

総選挙順位発表スピーチの場で結婚発表することについて~人生を危険に晒す須藤先輩さすがっす!!~

 6月17日の『第9回AKB48選抜総選挙』の開票イベントにおいて、NMB48の人気メンバー「りりぽん」こと須藤凜々花さんが結婚を発表しました。

 

 非常に知名度の高いアイドルグループに所属する、現役アイドルの晴れの舞台での突然の結婚報告は、大きな波紋と混乱を招いたと思われます。今回の選挙でも1位をとった48グループで最もテレビに出演している指原莉乃さんや、今回の総選挙には出場しなかったが前年の紅白歌合戦での投票では1位を獲得したNMB48のリーダー山本彩さんを含む多くの現役メンバーや、過去に総選挙で1位をとったことのある大島優子さんや、元総監督だった高橋みなみさんなど、すでに卒業したメンバーもブログやSNSで様々なコメントを残しました。また、お昼のワイドショーではご意見番と目される坂上忍さんが言及したり、また人間観察と毒舌に定評の毒舌トーク冠番組でMCもこなす有吉弘行さんは、自身がメインパーソナリティを務めるラジオ番組でこのことについてふれました。インターネット上で話題の出来事について持論を述べたりする炎上系youtuberシバターさんもこのことについての動画を2本上げました。そして、実際youtubeでは急上昇に関連動画が独占される事態が起こったり、またツイッターでもこの話題はトレンド上位にのぼったりし、このことからも多くの人々の関心事であることはうかがえます。

 

 私は、おそらく須藤さんのファンというほどではないと思いますが、以前からバラエティ番組での突拍子もないことを言ったり(エピソードトークのコーナーでおぎやはぎが司会を務める番組でアダルトビデオを見ていたときの話を、あまりそういう空気でもないのにしだしたのは印象的でした)、ディスコミュニケーションを感じさせるような相槌をしたり(須藤さんはよく「さすがっす!」と言いますが、人によってはちょっとバカにされてるような印象を持つような言い方のように思われます)する、須藤さんの振る舞いが面白いなあと思い、たまに彼女のツイッターをチェックしたり、彼女が共著で出した『人生を危険に晒せ』を読んだり、彼女がセンターを務めた曲『ドリアン少年』を聴いたりと、それなりに関心を持っていました。

 

 そのような立場からすると、須藤さんの今回の発言は、「やっぱりりりぽんは面白いなあ」という感想を抱くものでしかありましたが、巷にあふれる、ルールやモラルを持ち出して、許せないと憤るような反応は、ちょっと共感できないものでした。でも、そうした反応は、現在の社会規範や人間の感情のサンプルとして、とても示唆的なものだと思いました。たくさんのお金を払ってくれたファンや客に許される感情、そこであるとされる正当性の問題、ルールの穴をついたりこっそり破られているルールを堂々と破ったりすることはどのように扱われるべきなのか、本音と建前について、そもそもアイドルとはなにか、あるいはファンとはなにか、などなど。

 

 「哲学者を目指している」と、少なくとも日本において(外国でもきっとそうなのだろうとおもいますが)白眼視されるようなことを堂々と言い放ち、麻雀やヒップホップなどに関心を寄せ、独自のスタンスで、芸能活動をしてきた須藤さんが、今回のような騒動を引き起こす発言をしたのは、おそらく、このような状況でこのような発言をしたら、人は、社会は、どのような反応をするのか、という好奇心に基づいた、須藤さんの実験精神のようなものに起因している部分もあるように思います。だとすると、実際、人々の心は揺さぶられ、社会は大きな反応を示したと思うので、すごいです。実験成功といっていいと思います。

 

 ツイッターでは、プロデューサーである秋元康さんが過去に雑誌の対談で「総選挙のステージで結婚発表するのが一番かっこいいよね!」と述べていたことも今回の騒動をきっかけに話題になりましたが、私もやっぱりあんなことをしてしまう須藤さんは最高にクールだと思うし、アイドルと観客というコードに載せて発言するなら、ステージ上での須藤さんの姿にたくさんの元気をもらえました。(ありがとうりりぽん!結婚おめでとう~!最高にクールだよ!)

 

須藤先輩、さすがっす!!

 

 

 

 

中江

「文三」とは一体何なのか

 

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 東大の文三生を2年やり、またその後も「文三出身」として生活をしていると、否応無しに「文三」を貶める発言を聞く。「東大って言っても文三でしょう?」という言葉を文三出身である私に直接的にあびせてくるほど勇気のある人には(幸運にも?)お目にかかってこなかったけれど、「あなたはきちんと目的を持って文三に入ったのだろうけど…」という前置きから始まり、文一や文二の最低点の高さを倦厭して文三を選ぶ功利的な学生らを遠回しに批判する言説に直面したことはある。

 

 実際にそういう学生らは確実に一定数いる。また、「自分はそうでない」という思いがまず浮かんで来る人に関しても、ある行為を選択した理由を後から振り返ってすっぱりと言い切ることは難しいものだから、真摯に考えようすればするほど「比較的簡単に東大の称号を得たいから入ったという側面が、自分にもあるのかもな…」と思わずにはいられないだろう。

 

 もちろん、それは恥ずかしいことでもなんでもない。積極的にひけらかすことではないが、大学受験における「志望」というものには、多かれ少なかれ功利的な理由が含まれるものである。そのような理由とは全く無縁な人がいることは否定しないが、明らかに、少数派だと思う。

 

 冒頭に挙げたような、文三に対する遠回しな批判が、そのように取るに足らないのだとしたら、なぜあえてこのような話から今回の記事を始めたのか。その理由は、冒頭に挙げたような文三批判が、文三のよくわからなさに起因していると思われるからだ。この、「文三のよくわからなさ」について考えてみたい。

 

 文三と聞いて、どのようなイメージを抱くだろう。まず抱かれると考えられるイメージとは、「文学や哲学、歴史に詳しい人が多くいるのだろう」というものだ。

 

 これは大間違えである。誰からも一目置かれるような「詳しい人」は、30人のクラスに3人ほどいれば多い方で、一人もいない可能性すらありうる。

 

 また、「このご時世あえて実学につながる文一(法学)でも文二(経済学)でもなく、文三(人文諸学)を選ぶのだから、よほどやりたいことがはっきり決まっている人が多いのだろう」というイメージを抱いて入る人も多いかもしれない。それも大間違いである。大半は「漠然と人文科学に魅力を感じている人」だ。

 

 「じゃあ結局文三って何なの?」

 

 文三生こそ、それが知りたい。実のところ上に挙げた二つの幻想にもっとも強くとらわれるのは、他でもない文三生である。作り上げた「文三」イメージに期待を膨らませて入学し、遅くとも一ヶ月程度で、抱いていたイメージが「幻想」であることに気づく。

 

 そこからの反応は様々で、「自分はそうではないのだが、文三には多くの人が抱くイメージ通りの人々が(少数ながら)いる」と言って幻想を強化する者、「全然イメージと違った…」と落胆を隠さない者、実は将来の進路についてはブレブレなのに「私は高校時代からプルーストが好きで、どうしても仏文がやりたかったから文三に入ったの」と幻想をそのまま生き始める者、「東大入れるんならどこでもよかったんだよね」「やりたいこととかないんだけど」とぶっちゃけ始める者などがいる。

 

 

 …と古巣の文三について語り始めると、割と尽きないのだが、ともすれば自己陶酔的になるので、本当は、あまり好ましくないと自分で思っている。

とはいえ、続く。

私が文三だったわけ

 何かハンドルネームを用意しなければいけないのか。じゃあとりあえず五十嵐にします。よろしくどうぞ。

 

◇◆◇

 

 確かに、ブログやるならキャッチーに東大文三って名乗っちゃえ!みたいなことを私が言ったというのは間違いないが、こうして「文三ドイツ語クラス卒業生」という属性をアイデンティティとして背負うようなことになると、それはそれでずるいことをしているような気分で落ち着かない。全く他人の看板を借りているようだ。自分は間違いなく文科三類でしたけれど、文学や歴史にはまるでノータッチだし、哲学も心理も専門外です、と最初にお断りしておかなければならないだろうか。

 ただ、ひたすら考えて、熟慮して、考え尽くした上で少しでもぴったりくる言葉を選んで文章を書く、それがやりたい一心で今まであらゆることを選択してきたのだ。文三だったのも、今このブログにいるのも、もちろんそういうことである。

 

 考えないのは愚かなことだと思っていた。いや、今も多少は思っているけれど。それでも少し前までは、何事もよく考えて、熟慮して、考え尽くした上で少しでも後悔のない選択をすることがこの世で最も正しい在り方だと思っていた。そして、年を取って経験を積んで知っていることが増えれば、もっとマシなことを考えられるようになるものだと。

 今思えばこれだって一つの思考停止だ。何事もめちゃくちゃ悩んだ上で結論をひねり出すことが唯一の正解である、という価値観の盲信。実際にハタチを超えて分かったのは、年を取るということは世の中に知っていることが増えることなのではなく、知らないことがいかに多いかを知ることだ、ということだった。知っていることは10から20にはなったかもしれないが、そもそも知り得ることの分母が100だと思っていたのが大間違いで、せいぜい今分かるのはそれがもはやどれほど大きい数字なのかも分からないということだけだ。多少知っていることの分子が増えたところで、とても手の届くものではない。

 

 そういうことが、大学を卒業してようやく考えられるようになった段階なのだ。ところが残念なことに、やっと物事を考えられるようになったと思ったらそのときにはもう大学を卒業しなきゃいけなかったわけで……。やる気が行き場を失ったときに、このようなブログに参加させてもらえたのはラッキーだった。言うなれば、ずっと学生気分でいるために私はここに文章を書く。

 もっとも、「学生気分」などと学生と社会人を断絶させるような考え方は嫌いなので、文章を書こうと書くまいと私はずっと学生気分でいるつもりだといえばそういうことになるし、そもそも学生のときに学生気分というものになった覚えもないので、そんな気分自体初めから存在しないとも言える。とにかく、学生気分の社会人とか、文三ドイツ語出身者とか、そういったカテゴリーはとっかかりとしては重要かもしれないけれども、ただそれだけだ。主従関係は見間違わずにいたい。文三ドイツ語という人種の中に私がいるのではなくて、私の中に文三ドイツ語だったという要素がたまたまある、みたいな。

 

 最初はつまらない自己紹介みたいなことを言いたかっただけなので、話はこのへんにしておく。それにしても、どうもこれだけの文章なのにえらく難産で先が思いやられる。最初ってどうせこんなものだろうか?