On the Homefront

東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

好きな季節

 放っておくと愚痴っぽくなるので意識的に好きなものの話を書くことにする。

 突然季節が変わって、肌が寒さを感じ取った瞬間、反射的に心が高揚する。10月くらいの空気が一年で一番好きなんだよなあ。夏が遠ざかっていくのを感じられるのが好きだ。

 

 まあやっぱり暑いのが苦手だからというのは大きい。やっと汗の季節から解放されると思うと、それだけで十分好きになるに足るすがすがしさなのだ。

 あるいはもっと積極的に、冬が好きだから。年賀状書いたり鍋食べたりスケートしたり、冬にまつわるもののことを考えるとなんとなく心が踊る。でもいざ冬になると、やはり寒いし、雪も大変だし、何より冬が来たということは、もうすぐ冬が終わってしまうということだ。何事でもそうなのだが、楽しいことは「始まる前」が一番楽しい。昔から、週末の休日よりも木曜日くらいの方がワクワクすると思うような子供だった。だから、日暮れがみるみる早くなり、冬の訪れを感じていられるこの季節が好きなのかもしれない。

 10月には具体的に楽しかった記憶があるからかもしれない。中学生のころ、10月といえば文化祭のシーズンだった。今思えば……と、振り返るほど昔になってしまったのが信じられないんだけど、私にとってはあれほど楽しい時期はそうそうなかった。学校中どこに行ってもやるべきことがあったし、どれも自分がやりたくてやっていることばかりだった。

 それほど中学校に楽しい思い出があったわけではないと思っていたのだが、実際に振り返ろうとしてみると、高校や大学をまるで通り越して中学のことばかり思い出してしまうのが不思議だ。文化祭の準備が終わってすっかり真っ暗になった通学路で、素肌を出しているとちょっと寒い、でも動き回って温まった体にはそれがかえってちょうどいい、10月の帰り道。そういう肌の感じが、中学生のときの楽しかった記憶と一直線に紐付いているから、この季節が好きなのかもしれない。

 

 どの季節が好きかなんて、実は20年くらい生きてきてやっと答えられるようになったばかりなのだ。一年をいくつか束にして俯瞰して見ることができなければ、季節に評価も与えようがない。かつて季節はそれぞれ一つずつやってくるものだった。もちろん夏とか冬がどんなもので、どのくらいのペースで回ってくるか、ということは理屈の上では分かっていたわけだが、実際に認識している季節は、小学1年の夏休み、6年の正月、みたいにそれぞれ個別の事象だった。抽象的な概念としての季節を、毎年の実感と結びつけて認識できるようになったのは、つい最近やっとのことだと思う。

 で、そう感じられるようになって今、私は10月の空気が一年で一番好きだ、という結論に達したところなのだ。それでせっかく楽しみにしていた10月なのに、今年はちょっといきなり気温が下がりすぎて、あの好きな空気をあまり感じられない。どうもやっぱり愚痴っぽくなってしまうな。

国分拓『ヤノマミ』を読んだ

  今日も読んだ本の紹介。アマゾンの奥地にいる原住民族への取材体験記。もともとはその取材が元になってできたドキュメンタリーの方が先に世に出て、話題になったため、取材体験記が出版されたということらしい。哲学科出身の友人が手に取っていたのを見て、気になって読んで見た。

ヤノマミ (新潮文庫)

ヤノマミ (新潮文庫)

 

 

「少しずつ周りの空気が濃密になっていく」

  この本のアマゾンのページの商品紹介では「読売新聞 朝刊」 2010/5/30号に河合香織氏がよせたコメントが引かれている。

 

「映像よりもむしろ深く鋭くヤノマミに迫っている。読み進むにつれて、少しずつ周りの空気が濃密になっていくかのようだ。」

 

 このコメントは大変良いコメントと思う。まさにその通り、これを通勤途上の京浜東北線で読んでいたとき、私は自分の周囲の空気が固まって行くような緊張感を覚えた。日常生活の中で自明視している、私の結ぶ世界との関係のあり方とは、全く異なる形の世界との関係のあり方があるのだなと目を開かされるような気分だった。

 嬰児殺しの場面に注目

 作中で一番緊張感が高まるのは、嬰児殺しの場面だろう。ヤノマミ族の価値観では、生まれてきた子供は精霊であり、母親がそれを育てる決意をして抱き上げるまでは人間ではないということになっている。

 子供を精霊のまま神に返すか、人間として育てるか、その決定は母親に委ねられており、前者を選択した場合、母自身の手でそれを殺したのち、遺体をシロアリの巣の中に入れアリ達に食べられるがままにすることになる。

 出産直後の女性(年齢的には14歳くらい)が産んだばかりの子供を精霊のまま返す選択をし、実行に移す際、作者国分さんはその場面からどうしても目をそらそうとしてしまう。直視しようとしながら、一方で見るにたえないのである。対照的に、国分さんと行動を共にしていたカメラマンはあくまでそれをカメラにおさめようとする。

 なぜ私は仕事に向かうのだろう?という気分になる

 この辺りの、私たちが前提としている文化的規範の底を抜いてしまうような出来事に相対した時の二人の対照的な行動二つが、二つともあわさって、読み手である私の中の人間性をじくじくと刺激してくる気がする。なぜ私はこうしてスーツを着て、1時間程度かけて会社に通い、朝から晩まで働いているのだろう?と問い直したくなる気分になる。自分が意識的・無意識的に則っているルールが剥ぎ取られた地点がそこに描かれているからだ。

 

 文化人類学的な本は最近読んでいなかったが、最後に読んだレヴィ=ストロースの『野生の思考』は、そう言えばえらく面白かったな、と思い出す。

 

野生の思考

野生の思考

 

  ほっとくと小説ばかり読んでしまう私だが、もっと異なる分野にも手を広げたいと思う、が、もう若くはないし、読める本にも限界がある…。この限界を持たざるを得ない悲哀とどう付き合うかが最近の課題。

 

  

 

『窯変 源氏物語』と、平凡な大学院生から見た橋本治

 橋本治『窯変 源氏物語』を読んでいる。

 

窯変 源氏物語〈1〉 (中公文庫)

窯変 源氏物語〈1〉 (中公文庫)

 

 

 『窯変 源氏物語』は橋本治による、『源氏物語』という「原作に極力忠実であろうとする創作」である。

 この小説の中では、語り手=光源氏が自分のことを「私」と名指すため、『源氏物語』が、あたかも源氏の書いた私小説のような様相を呈している。

 無論私小説はこの時代には存在しなかったのだから、このような私小説らしさは橋本治の創作によるものだろう。いずれにせよ、この形式のせいか、近現代小説に慣れている私に、橋本の源氏物語は大変読みやすい。

 

 とくに感心させられたのは、「帚木」という章において男性たちの間で繰り広げられた女性のあり方に関するやりとりである。

 例えば一部を引いてみよう。

 

「女の、”これなら大丈夫だろう”というようなのはほとんどいないんだっていうことが、最近になってようやく分かってきましたよ」

 問題は男にあるのではなく女の方で、しかもそれはどれもこれも似たりよったりの顔を持ち、だからこそ「色んなものがある」としか言いようがない−−−頭の中将にとって最大の問題とは、自分がどうあるかではなく、この世にはろくな女がいないという、そのことだった。

 私が捕まえようとして、何をどう捕まえてよいのかよく分からなかった”夜の論理”というものは、いたって簡単なものだった。

 私はまだ知らなかったのだ。男には恥部など存在しないということが、夜の論理を貫く最大の鉄則であるということを。十七歳の私は未だ男であることに不慣れで、それ故に未知の不安を”恥部”として意識していた。

 だから私はその夜、女達の品定めをする男達が恥部というものを意識しないでいる不思議な生き物だということを、初めて知ることになる−−−。

橋本治『窯変 源氏物語』第1巻、中央公論社、1991年、85-86頁)

 

 「帚木」では、このように、中世を生きる貴族の男たちの、女のあり方への洞察と、その男たちの傲慢さを抉り出して見せる光源氏の心内描写とが繰りかえされる。そして、上引用部にあらわれているように、光源氏=語り手は大人の男達のやりとりに参与しながら、内省を深めていくことで、「男」としての自己のあり方を定め、それに向けて自己を方向づけて行く。

 

 このような光源氏=語り手のさまは近代小説に馴致された私の目から見ても十分に面白い。人間性というのは千年前でもそう変わらないものなのだなとはっとさせられる(原文を確認していないので、私が面白いと思う部分は、すべて橋本治による「創作」なのかもしれないが…)。


 また同時に、「帚木」の時点では揺れ動くアイデンティティを持った思春期の少年である光源氏が、これから先10巻以上にもわたる物語において、青年期・壮年期・老年期と順に通過する中でどのような変容を迎え、どのように生きていくのかがとても気になる。
 

橋本治という人

 さて、ここで、話を橋本治という作家本人に移してみよう。数年前から、橋本治という人物が私には気になっている。

 橋本治というのは誠に変わった人である。まず文壇の中での立ち位置が変わっている。本人の言によれば、橋本が書いた本は小説・評論・エッセイと多岐にわたり、その数180点を超えるらしいが、特定の著作が話題に上らない。


 橋本は評論の分野では小林秀雄賞など権威のある賞を受賞しており、小説も若干説教くさい(後述するが、これは厳密には橋本なりのサービス精神なのだろう)が、とにかく読ませる。実力は十分にある書き手である。

 かつまた、現在進行形で盛んに文芸誌に小説を発表したり、新書を書いたりしている。それも、かなり盛んにしているのだ。例えば最近では『知性の顛覆』が出版されたし、雑誌『新潮』10月号では「草薙の剣」という小説を発表している。

 

  

新潮 2017年 10 月号

新潮 2017年 10 月号

 

 

 橋本は決して終わってしまった昔の作家というわけではないことがここからわかる。

 にも関わらず、文芸の世界でも、評論の世界でも、橋本治が話題に上ることは少ない。


 なぜなのだろうか。
 その第一の理由は、橋本という人間の区分けしがたさにあるのだろう。橋本は作家でもエッセイストでも評論家でもあり、そのどれか一つに彼を還元して語ることは出来ない。いうなれば彼は物書きであり、それ以上でも以下でもない。だから、小説を論じる文脈でも、評論について語る文脈でも、橋本を登場させづらいのだ。橋本を登場させると、話が小説や評論といった特定の分野におさまりにくくなる。


 第二の理由は、彼の書くものの性質による。たとえば橋本の評論は、彼自身が述べるように、とりとめのなさを孕む。まとまっていないような印象がある。しかし、一方で全体に一本の筋が通っていないのかといわれれば、筋がないわけではない。
 なぜそのような文章になるのだろうか。これもまた、評論家でありエッセイストでもある橋本の性質によるのであるのだろうし、橋本が何本も並行し、多くの執筆活動を行っているが故のものともいえるだろう。議論を精緻に構造化するには、橋本のようなスタイルでは、時間が足りない。それに、橋本の饒舌でわき道にそれる語り口のよさは、それでは発揮されないのではないかと思われる。


 今私が「まとまっていないような印象がある」と評したため、橋本の著作がわかりにくいように想像する人もいるかもしれない。しかし特にそういうわけではない。鋭敏かつ明快な部分は多くある。それと同じくらい、明瞭にいえるはずなのに何かに遠慮し、韜晦を含む部分もある。
 橋本は自分が商売をやる町人の息子であるから、どうしても多くの人にサービス精神を発揮してしまうと自著で述べている。また、これだけ多くの作品を発表している書き手の言葉とは思えないが、注目されすぎ、偉くなりすぎることで目をつけられることを恐れてもいるらしい。このような、外見から見える派手な仕事ぶりの一方で存在する世間への繊細な気回しが、橋本の単にわかりやすいというわけではない部分(わかりづらいというわけではない)を構成しているのだろう。

 

 この橋本が、老年にいたるまで毎月の返済額が100万円にも上るような巨大な借金をバブル期に作り、それを抱えながら仕事をしていたという事実は、意外といえば意外な話だった。橋本の過剰なほどの多作は、経済的な要請に駆られてのものだったのか…となにやら腑に落ちるような気分になったりもする。
 しかし橋本自身の言を信じるのなら、これは事態が逆なのであって、借金を抱えてしまったから否応無くたくさんのものを書かなければならなくなったというよりは、自分はたくさんのものを書けるし書き続けていけるという確信があったからこそ、借金も出来たということなのらしい。大変羨ましい。書いているとすぐに自分の底が見えてしまう私である。


  

 

市川春子『宝石の国』を読んだ感想 : 余白から生まれる透明な寂しさ

 大学の友人たちとの読書会で、市川春子宝石の国』を読んだ。今日はその感想を書いていこうと思う。

 なお、今、1巻のKindle版は無料で読めるらしい。

 

 

余白の多い画面が良い

 正直一巻の半ばまであまり惹きつけられる感じはなかったのだが、それをすぎたあたりからこの作品の描線に感覚が馴れていき、容易に抜け出せなくなってしまった。

 先に言ってしまうが、ストーリーラインの中に見るべきものは正直ほとんどないと思う。SF、ファンタジー、仏教のモチーフが入り乱れる本作の設定は悪く言えばめちゃくちゃ。よく言えば自由。入り乱れているそれぞれの要素がうまく絡み合えば「めちゃくちゃ」ではなくなるのだが、正直個々の要素があまり巧みに結びついていない感じがある。

 それでは何がいいかというと、多くのものを捨て去り、綺麗で清潔なものを残す、作者の感性、世界の捉え方がよいのである。ストーリーラインは、この作者の世界の捉え方を示すための手段にすぎないように思われる。

 まず1コマ取り出してみよう。以下のような画なのだが、要するに描かれる対象が丸みを帯びた線により抽象化されており、複雑な部分や汚れは捨象されている。作者は描写を行う上で厄介なものを無視しているのである。

 

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市川春子宝石の国』第1巻、アフタヌーンKC講談社、2013年、113頁)

 

厄介なものが捨てられた、綺麗な身体

 同様の操作は彼らの身体に関する設定の上でも行われている。主人公たちは「宝石」であるとされ、作中の大部分でピカピカと光り輝いており(下図参照)、破壊されても輝く宝石の破片になるわけで、血液が飛び散ったり身体の形が不恰好に変わったりすることはない。痛みの感覚もないし、性別もないのだ。身体の持つナマモノ故の厄介さが、ここでも徹底して無視されている。

 

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(同上、1頁)

 

 それゆえに、第一に私が持つことになったのは「なんだか宝石いいな、綺麗で…」という偏差値ゼロメートル地点の感想だった。第二に持つことになったのは寂しい、物悲しい、という感想である。前者は後者と結びついている。多くのものを捨象することからくる寂しさが、小さな宝石の輝きを強調しているからだ。

 

捨てることが喚起する、透明な寂しさ 

 それでは、多くのものを捨象することがなぜ寂しさを喚起するのだろうか。

 それは、読み手の想像力がその裏に捨てられてしまったものを二重写しにして読むからだろう。抽象化された描線は、ずれ、重ね書き等を排した迷いのない曲線で構成されており、線と線の間は多くの要素を捨象したがゆえに成立する単色の広い余白で構成されている。読者として僕はここに、本来あるべきものの影を見、そしてそれが捨て去られることの寂しさを感じるのである。

 同様の余白は、ストーリーの上では、時間的・空間的なものとして現れてくる。敵との戦いと日常生活との単調な繰り返しからなる展開らしい展開が不在のストーリーラインにおいて、目を引くのは彼らが作品内で経る時間の長さ(エピソードとエピソードとの間に100年くらいの時間が経過していたりする)や、彼らせいぜい二十数人が活動する場としてはあまりに広い草原である(下図参照)。

 

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(同上、76頁)

 

 ここで注目されるのはやはり余白であろう。描出されたエピソードが彼らの単調な生活のほんの一部であることを示すかのように挿入される間に過ぎた時間の長さへの言及は、描かれることのなかった時間=余白を読むものに意識させる。小さな宝石たちと大きな草原との対比は、その間にある広大な空間に広がる何もなさ=余白を強調する。

 

「なんだか、とてもいいな」と思ってしまう寂しさ

 大きなものと小さなものを対比した時、そこには透明な寂しさが生まれてくることを、柴幸男『わが星』が岸田國士戯曲賞を受賞した際に、選考委員である野田秀樹が指摘したが、この作品ではまさに大きなものと小さなものとがいたるところで対比されており、それこそが、作品全体を覆う物悲しさを生み出しているように思うのである。

 多くの人がこの作品の描写の上での余白に、また、この作品が前提とする時間的スケールの大きさと、クローズアップされるもののちっぽけさとの間に生まれる余白に、不思議とひきつけられてしまうのではないかと思う。それは目に入るあらゆるものに関して容易に情報を得ることができ、また時には情報を得ることを駆り立てられる今日においてこそ一層力を増す、描かないこと、捨てることの魅力なのだと思う。 

大急ぎロシア観光 その4:本屋と文房具

前:大急ぎロシア観光 その3:チャイコフスキーの家博物館 - On the Homefront


 モスクワ滞在最後の半日は、一人で街をぶらぶら歩くことにした。楽しみにしていたのはなんといってもДом книги(ドム・クニーギ)、「本の家」……要するにでっかい本屋だ。ロシア語の授業で先生に紹介されて、ずっと行ってみたいと思っていたのだ。なーんて気取ったところでロシア語の本なんか読めやしないんだけどさ。

 新アルバート通りという大きな通り沿いにある大きな店舗で、「赤の広場」から歩いても行ける。地図に弱い自分でも迷わずたどり着けたが、道路を渡るのに地下道の入り口を探さなければならなかった。この日は雪がチラついていて、チラつくだけならいいんだがだんだん吹雪いてきたりもして、季節は完全に冬。上着のフードだけで雪を凌ぐには歩き続けるのがつらくなってきたころに、地下に潜れるのがちょっとありがたかった。

 

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 ドムクニーギ、2階建ての明るい店内はちょっとしたショッピングモールのような広さ。1階には本だけでなくおもちゃやインテリアやお土産売り場まであり、もうこれは何時間ここにいても飽きないなと一目見て思う。とりあえず2階の本売り場から物色してみることに。

 キリル文字の読解力を総動員してなんとかタイトルを読み解き、本棚を眺めているだけでもこれが十分面白い観光地なのだ。例えば音楽書にしても、さすがにチャイコフスキーは人気だなとか、プロコフィエフも負けてないなとか、あとはやっぱりバッハ、モーツァルトベートーヴェンは外せないんだなーとか、それなりに発見があるものだ。もちろん中身が読めればそれに越したことはないんだが……。文字をを追うのに疲れてきたあたりで、装丁の可愛らしさに心ひかれて、ピアノでかんたんに弾ける子供向けの『展覧会の絵』の楽譜を買った。五線譜は世界共通だからね。

 子供向けといえば、話は逸れるが、アメコミヒーローやディズニーキャラクターはロシアでも定番らしく、コミックやおもちゃがあちこちで売られていた。それにしても、この国に来てからというものマンガをほとんど見かけない。というのはコミックブックのことではなく、マンガ的なイラストが全然ないのだ。街中の広告もだいたい文字と写真ばかりで、「ゆるキャラ」のようなイラストすらほとんどお目にかからない。当然、日本のアニメ絵のようなイラストはどこにもない。児童書も何冊か見たが、軒並み挿絵が教科書っぽかった。まあこれはロシアの特徴というより、日本の方が特殊なのだろうけれども。ピカチュウハローキティはだいたいどこのお土産屋にもいて、その人気のほどに驚かされた。

 

 話を本屋に戻すと、その後あちこち見て回った末に、読めやしないと思っていたのに結局ロシア語の本を買ってしまった。『日本語ぺらぺらの為の二つの語根からなる言葉』……ロシア語話者向けの日本語学習のテキストなんだが、「ぜんぜん」とか「どきどき」とか「ニャーニャー」とかそんな語彙ばかり集めて解説した本で、なんかちょっとワクワク、ニヤニヤしてしまうじゃないですか。

 この本はそうでもなかったが、日本語の語学書の表紙はだいたい富士山に桜に真っ赤な鳥居とかそんな感じで、あまりにもいかにもいかにもなのでちょっと面白かった。まあ、日本のロシア語のテキストもだいたいマトリョーシカなので、同じことなのだ。

 

 白状すると、ここへ来た一番の目的は本よりも文房具だった。いっぱしの文具マニアとして、お土産グッズではなくロシア人が日常的に使っている文房具をこそ見てみたいのだ。日本でも輸入文具を扱う店はあちこちにあるが、ロシアのメーカーってまるで聞いたことがない。これはもう、現地調査するしかないというわけです。

 結論。1階の文具売り場に並んでいたボールペンやシャープペンシルの類は、ほとんど外国メーカーであった。外国というか、日本メーカーのペン。それもよく見慣れたパイロット、ぺんてる三菱鉛筆、ゼブラ、などなど。マジかー!!

 日本で買えば100円か200円くらいの、一番シンプルな事務用筆記用具といったタイプのペンがざくざく並んでいるのだった。値段は200ルーブル程度(1ルーブルがだいたい2円くらい)と若干割高だったものの、製品自体は日本で手に入るものと何一つ変わらない。多少ラインナップは古かったかもしれないが、そのくらいだ。

 もちろん日本メーカーのものだけではなく、スペインのMILANやフランスのBIC、ドイツのSTAEDTLERなどヨーロッパのおなじみのメーカーもたくさんそろっていた。しかしいずれにせよ日本でもよく見かける製品ばかりだ。珍しかったのはMade in Turkeyと書かれた派手な鉛筆くらいか。ロシア国産のペンなどは、探した限り一つも見つけられなかった。マジかー。拍子抜けといえばそうではあるが、日本のそんじょそこらの文具売り場よりも商品の数はずっと豊富で、海外にいることも半ば忘れて文具漁りに没頭してしまった。

 

 「書く」ものに関してはそんなところだったが、「書かれる」ものの方は期待通り、日本では売っていないようなノートやメモや手帳にたっぷりお目にかかることができた。メイドインロシア製品もたくさんあって、デザインもかわいいものばかりで心が躍る。キリル文字のキャラクターが描かれたノートなんか、現地の子供向け学用品なのかもしれないが、値段も手頃なので目移りしてしまった。いかにもロシアロシアしていなくてロシアっぽく、ちょっと見かけないような文房具が手に入るとなると、ふつうにお土産としても重宝しそうだなあ……と思いつつ、つい自分へのお土産ばかり買い込んでしまう。ドムクニーギ、やっぱり何時間いても飽きないお店でした。

 

 大急ぎロシア旅行、まだつづきます。

欲望するからAVを観るのではなく、欲望の対象を見つけたくてAVを観る。

 昨日友人と話している時に「夕食の後は結構AVを観る」と言われ、「食事の直後って私あんまり性欲が高まって興奮するという感じじゃないんだよね。平常状態でAV観ると気持ち悪くなったりしない?」と聞くと、「でも、僕は基本的に平常状態で観始めるよ。AV。」と返されました。

 

 「ふーん」とかいってその場はそれで終わりにしたのですが、その後冷静に考えてみると、私も基本AVは平常状態で観始めるな、と思いました。少なくとも、とても性欲が高まっている時に観るということではない。そこまで高まっているのなら、AVをわざわざ必要としないことが大半です。

 

 しかし、一応何らかの欲望を持ってAVを観はじめている気がする。興奮しているというわけではないけれど、何かが高まって観はじめてはいるので、「平常状態」という言葉には若干違和感があるのでした。

 

 それではどんな時にAVを観ようと思うのかと言えば、もちろん自慰をしたいときです。ただし、繰り返しますが、性欲が高まって今にも破裂しそうで、やむにやまれず観始めるというわけではない。性欲を高め、興奮し、自慰をして快感を得るという一連のことをしたいと思って観始めるわけです。性欲が高まって観るのではなく、性欲を高めるということがしたい、と思って観始めるのです。

 

 性欲を高めたいというのは、それではどのような欲望なのか。自分自身の話をするのなら欲望の対象に何かしら集中する濃密な時間が欲しいということのような気がする。普段何かを強く欲望することのない私は、欲望すること自体をしたいと思って漫然と色々なAVを漁る。するとどこかしらに自分の欲望を掻き立てるAVを見つけることができる。ああ、これに私は興奮するんだな、と思う。

 

 これは、自己認識を深化させたいということなのか。自分の性的な方向付けを発見することで改めて自己の輪郭をはっきりとしたものにしたいということなのか。

 たしか、赤川先生の本にはそんなようなことが書いてあった気がします。

 

 

性への自由・性からの自由―ポルノグラフィの歴史社会学 (クリティーク叢書)
 

  

 それで、もしそうだとすると、どこまで言っても自己が不確定なものとしてある以上、ポルノグラフィを探索する旅は終わらないことになるわけです。

 あまり自己の内面を見つめず、深く考えないタイプの子がいたってノーマルな志向性を持ち、そもそも大して自慰をせず、するとしてもおかずが『To LOVEる』レベルだったりするのは、それほど自己の輪郭を確定する必要にかられていないからなのだろうと思われます。

 自己探索を盛んにする人物は、自己の性のアブノーマリティについて語りたがり、また、AVに関しても、細かな設定にこだわったりする嫌いが強いように感じられます。

 

 だからなんなのか。うーん。ちょっと保留、なのですが。

 

 今日は風が滑らかで大変良い日でした。

 

偽の歴史というジャンル:フィリップ・K・ディック『高い城の男』

 大学一年生の時、シラバスでふと見つけた船曳ゼミに未だに参加しています。文化人類学者の船曳建夫先生のゼミです

 最近、そのゼミの読書会で、フィリップ・K・ディックの『高い城の男』という作品を読んだので、感想を書いておきます。

 

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

 

 

 この作品は日本とドイツの勝利というあり得たもう一つの現実=偽史を舞台としています。作中では、アメリカが勝利したという(作中内の観点から見た)偽史が流通しており、作品はその作中内偽史(=読み手にとっての現実)を読む人々のありように中心的に焦点化しています。

 この作品の眼目は偽物の歴史、あり得た世界とそれを読む人々との関係のありようにあります。

 個人は大きな歴史の流れから容易に外に出ることはできないが、それをわかりながらあり得たもう一つの物語を作ってしまう。そして偽にすぎないそれらの物語から力を得て、現実(=『高い城の男』の物語)が駆動されていってしまう。そのような偽史=フィクションと現実との関係性が描かれているのです。

 

 作中内で扱われるアメリカ側が勝利したという偽史は、終結部でむしろそれこそが真実であったと暴露されるのですが、偽のものが真実であったことがわかってなお、だからといって偽の側に反転してとらえ直される『高い城の男』の世界の人物たちが真実=アメリカの勝利した世界に向けて外に出ることはできず、現実的な戦勝国=ドイツの迫害は身に迫る危機としてあり続けています。

 だとしたら、真実を知ったことにいかなる意味があったのだろうかと思わずにはいられません。ということで、ここで作中内で流通する偽史の作者である「高い城の男」が、占いに助けられてその物語を書いたこと、そのことの意味は何かという問いがわきあがってくるでしょう。

 

 『高い城の男』は偽の歴史を読む人々の物語であるとともに、偽の歴史を書く高い城の男=作家の物語であり、危機があちこちに伏在する現実に閉じ込められる人々が、そこから脱出しようとして読むこと、そして書くことの意味を問うた作品と私は受け止めました。

 あらゆるものが善と悪、真と偽の二項対立の図式に還元され得た冷戦期に、この物語は、その図式自体への懐疑を投げかけていた、ととりあえず言える気がします。このように大まかに言ってしまえる作品は多数存在すると思うのですが、この作品も大きくはその一群の中にあると考えられるのです。

 

 真も偽も作られるものであり、かつまたある事柄が真であるか偽であるかがわかったとして、それとは関係なく危機は迫ってくる。にも関わらず、真なる物語を書くのは何故か、という問いに戻りましょう。

 「高い城の男」は何も真なるものを書こうと言う当為により書いたのではなく、占いに導かれて、それを書いたということでした。つまり、何かしら魔術的な力に駆動され、思いがけず真実にたどり着いてしまった男であるということになります。

 だからこそ、高い城の男はそれの持つ意味を測りかね、真実性の力に取り込まれすぎないように、自分の書いてしまった作品からあえて距離を置いているように見受けられます。

 

 ウィキペディアによれば、この作品はディックの作品の中で例外的にまとまりのよいものであるとのことですが、それは高い城の男の、自分の書いてしまったものに対する距離感と同様の源から発しているのかもしれません。自己の書くものに過剰に接近しすぎると物語は大抵、過剰さや過度な曖昧さによる自己崩壊を引き起こすなどして、綺麗に終わることのできないものですが、作中内の高い城の男のように、ディック自身も自分の書いてしまった『高い城の男』という作品から、一定の距離をとろうとしているように考えられます。

 

 作品は偽の歴史の世界に舞台を置き、舞台内での偽の歴史=現実世界である作家ディックの生きる現実における真の歴史にたどり着くことで幕を閉じます。もちろん、最終的に「真」に位置付けられた作中内作品も細かく見ていけば、作家ディックの生きる現実世界との異動が見受けられ、このような作品内部で「真」の位置付けを与えられた歴史と現実の歴史との間の揺れをひもとかなければ滅多なことはいえないのですが、真実にたどり着くことが二項対立の世界からの脱却=外部への脱出を示すのではなく、むしろまた別の二項対立の世界=もう一つの内部に入り込むというデモーニッシュな反復が印象的でした。

 だからこそ、出発点でも着地点でもなく、ある内部からもう一つの内部への移動、書くことと読むことを通して演じられる移動を描く作家の眼差しこそが、作品の本領と感じられます。