On the Homefront

東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

暴力を描く作品を欲する

 ふらふらとただ快を求めているうちに、快に溢れるというのではないが、不快がほぼない生活を得た。「得てしまった」という方が正しいかもしれない。通勤時間は長いが都内からの下りなので行き帰りともに座れないということがない。大抵の場合は座った席の隣に人がいないほど空いている。少し時間をずらすと、ボックス席に私しかいないということがありえる。こうなって初めて、電車の中で座ることができれば楽だと、立っている時の不快感をだけ念頭に置きながら思っていたのだが、座るにしても隣に人がいるのといないのとでは大きく違うのだなと気づく。

 職場ではこの時期主にデスクワークである。個々の裁量が高い仕事であるから、あまりとやかく言われることはない。事務作業が中心なので、社外の人とわずらわしいやりとりをする必要はない。快は時折しか訪れないが、不快はない。一人暮らしを始めたので、家でも自分の自由な時間に、自由にことを運ぶことができる。

 このような生活を送ると、感情を刺激されることがなくなる。強い不安に駆られることもなければ、怒りや悲しみを感じることもない。だからなのか、奇妙なことに、ここ数日陰惨な夢ばかり見るのだ。

 

 例えばおととい観た夢は、口論の末妹を複数回殴りつける夢だった。僕は人間の顔をグーパンチで殴ったことはないし、平手で打ったこともない。それは僕の中で最大のタブーのようになっている。DVなどの体験談で、夫が妻を殴るという描写を読んだりすると、文字通り目を覆いたくなる。そのような行為を自分がするという夢であった。僕が複数回殴りつけるうち、妹の顔は腫れ、膨れ上がっていった。殴りつけた直後の一瞬は自分のしたことの恐ろしさに震え上がるのだが、続く妹の反応を見てしまうと、そこからさらに大きなダメージを受けることがわかっているので、それを否定するように連続して殴りつける。

 

 起きてからその夢について考え、会社に遅刻しそうになった。僕は妹と様々な点で感性がことなるので、彼女を忌々しく思うことはあるし、彼女も僕を忌々しく思うことはあるだろう。しかし僕たちは、少なくとも小学校以降、身体的な暴力を振るい合うということはしてこなかった。今後もそうなのだろうし、それは自然に、そうなっていた。…で、この夢というわけだ。

 いくつか考えた末の結論は、僕はある周期を持って暴力に方向付けられるということだ。自分が振るうというのではないが、暴力を描く作品を読んだり、書いたりするなど、暴力に接近することを必要とする。特に、日常に何の変化もない時。したがって、感情が引き延ばされたり、捻じ曲げられたりしない時。そういえば、見える世界のどこにも暴力が見当たらないと思った時、僕の内部では暴力的なものへの接近が始まっている。

 暴力への接近は何のためだろうか。平穏な日常の存立機制の思わぬ脆弱さ(暴力で容易に壊れる)と、それが実際に成り立っている目の前の状況の緊張感(その成立は、複数の暴力の拮抗)を改めて感じたいのである。それは、書物で遠くにある世界のことを知ったり、思考実験のようにして知性を使うということではない。より肌感覚に迫るような、周囲の世界と、その中で生きる自己との関係性について考えたいという欲望であるのだと思う。

 

 そういった事柄に気づいて、暴力を描く作品を読んでみようと思い、『闇金ウシジマくん』という作品を立ち読みしたのだが、私の中で「顔を殴るような暴力」に位置付けられる苛烈な暴力描写の連続に一巻半くらいで挫折してしまう。本当は、それらの暴力描写が何を壊しているのか、何を明らかにしているのかということを直視し、考えなければならないのであり、それが人の暴力性にまつわる、深いところの何かを明らかにしているのか、単なる暴力描写を消費したいという欲望に供される暴力描写なのかということを明らかにしなければならないのである。しかしちょっとその体力もなく、「やっぱりグロいだけでは全然暴力描写としては優れていないよな」という当たり前の気づきと、「こういうのを読んでいたら性格が歪むのではないか」という小並感溢れる感想を抱いて、Coopで40%引きの寿司を買い(安い!)、改めて日常に戻っていく。

 そのような金曜日だった。

 

あの頃に戻りたくない

 ハタチを過ぎたあたりから年を取るのが嫌になった。などと思ったりはしていながら、昔に帰りたいとか子供に戻りたいとは、想像していたほど、というか全然、思わないんですね。

 こういうことを実感するために私はたくさん言葉を書き散らしてきたのだ。過去に自分が書いた文章を読んでいると、あんなに何も知らなくて何も考えられなかったころの自分が今よりも良かったなんて絶対に思えない。だからあの頃に戻りたくない。

 日記らしきものは小学6年のときからほぼ途切れずに書き続けてきた。ネット上でも何かしら意見を書き付ける場所を設けて5年くらいになる。ちゃんと人に読ませるために格好付けて書いた作文もずいぶんあるはずだ。で、たまに読み直してみると、これがもうとても読めたものじゃない。さすがに昨日の自分はそこまで客観的には見直せないとして、1年くらい前の文章になるとほとんど他人事みたいで、まあまあ良いことも言ってるなーなどと思うこともあるのだが、3年くらい前になるともうダメだ。恥ずかしい。ごくたまに10年前の自分の文章に感心できることもあるが、ほとんどは恥ずかしいだけだ。

 

 このへんになると、もう今の私との同一性がどれだけ保たれているのか自信が持てない。書いたのは明らかに自分なのだ。忘れたわけじゃない。でも思考があまりにも違う。

 例えば自分が中学生のときの記憶ははっきりある。あんなことを考えたなあ、という経験も自分のものとして覚えている。それなのに、そのとき考えた内容を見直すと、その経験を記憶している今の私の頭と、同じ私の頭で考えたこととはまるで思えないのだ。感じ方が違いすぎる。

 そのときどきで書いているときは真剣だったし、全力で言葉を選んでいたはずなんだ。それを覚えているからこそ、その内容のしょうもなさに今見ると驚いてしまう。間違いなく私が考えたことなんだけど、こんなこと私は考えないんだよ。ほとんど他人の思考みたいで、そうなると、過去の自分ってどこまでが本当に自分なんだ?

 

 ここでも何回か書いたけれど、この10年くらいで随分知っていることが増えた、というより、知らないということを知っていることが増えた。でも、それは単純に頭が持ってる経験の量が増えたっていう話じゃなくて、そこからはじき出される思考という結果の方もこんなに変わるってことだったんだなあと、最近気付いたところだ。過去の自分が「自分」じゃなくなるという感覚に最近初めて遭遇して混乱している。

 今が一番マシだ。今やってることが一番マシかどうかはまた別問題だが、少なくともものを考えられるかどうかということに関しては、今までの中では今が一番マシ。で、今後もどんどんマシな自分を更新していく予定だから、少なくとも後ろに戻りたくはない。となると今書いている文章も、何年かしたらもうとても読めたものじゃなくなるんだろうけれども、それでも一応、そのときどきで何かを真剣に書いておくことが重要だと思うので、今はここにぶっちゃけておくことにしました。

照射(ショウシャ)

昨日、生活で起こったことを書いてみて、現在、また書きたいという気持ちが生まれている。
これまで他者を意識する際の緊張が、公開するつもりで文章を書く際にも、走り、沈黙は金として抑圧してきたものが限りなくあったはずだし、任意の出来事を書くにあたって、必然性にかんして疑問符がつくのも仕方ないと、自分自身に対して思うところもある。
沈黙を守ることは、価値判断は別にして身の処し方の一つであり、極論を言えば、生物としての生存戦略であるかもしれない。
結果的にそれは生活において、自分を混沌に任せて流していくことにつながる。
溺れる夢のなかで諦めることを繰り返すようなものだと思う。そのようにしか生きれないということは、いくらでもあるけれど。

 

こう書いてみて、昔に読んだ文章を思い出していることに気がついた。

「このあとに展開するのは一篇の小説である––というか僕を主人公にした瑣末な出来事の連続である。こんなふうに自伝的なものを書くということが唯一無二の選択というわけではない。とはいえ僕にはこれしかない。もし目にしたものを書かなくても、やはり苦しいだろう––そしておそらくは、その方が少しだけきついだろう。「少しだけ」という点を強調しておく。書くことはほとんど慰めにならない。それは物事を再び描きなおし、範囲を限定する。ごくわずかな一貫性を生む。一種のリアリズムを生む。ひどい靄のなかでまごついていることに変わりはない。いくつかの指標があるにはあるという状態だ。混沌まであと数メートル。実にぱっとしない。
読書の持つ絶対的、脅威的な力と、なんという違いだろう!一生読書して過ごせたら、どんなに幸せかと思う。僕は七つの時分にはすでに読書の力を知っていた。この世界の仕組みは痛々しく、生きづらい。僕にはそれが修正可能とは思えない。実際、僕には一生読書して過ごす方が向いていると思う。
そんな人生は、僕には与えられなかった。」

これは、ミシェル・ウエルベックの『闘争領域の拡大』のなかの一節だ。

何故、書くのかということについて、こうした趣旨の回答をする作家は他にもたくさんいることと思う。

 

ただ他にも思い出されるものはある。今読んでいるポール・オースターの『記憶の書』には、「いかなる言葉もまず見られることなしには書かれえない。ページにたどり着く前に、それはまず身体の一部になっていなければならない。心臓や胃や脳を抱えて生きてきたのと同じように、まずはそれを物理的存在として抱えて生きなくてはならないのだ。だとすれば記憶というのも、我々のなかに包含された過去というより、むしろ現在における我々の生の証しになってくる。人間がおのれの環境のなかに真に現前しようと思うなら、自分のことではなく、自分が見ているもののことを考えねばならない。そこに存在するためには、自分を忘れなくてはならないのだ。そしてまさにその忘却から、記憶の力が湧き上がる。それは何ひとつ失われぬよう自分の生を生きる道なのだ。」とあった。

 

記憶として存在する過去の現在性は過去そのものではなくても、過去の名残に触れることができるし、私は先ほどあった脱毛クリニックでの出来事を思い出している。率直に言って、出来事らしい出来事はなかったけれど、今回の担当者の人によって、以前の看護師の人たちより、なんとなく落ち着いて施術を受けられた気がしたというくらいだった。夏ごろに、歯医者で治療を受ける直前に気分が悪くなって脱水と目眩がして、休ませてもらってしばらく後帰宅、ということがあったから、私にとってそれは重要なことではあるのだろう。けれどせいぜい落ち着いて受けられたというくらいで、出来事らしい出来事はありませんでした。きっと看護師なら技能給というものがついているだろうけど、レーザーの機械を使うのに例えば採血ほどの技術の差が生まれるようには思えない。いつも通り照射はそれなりに痛みを伴った。でも、凄く良かった気がした。冷却も済み、最後にせめてありがとうございました、としっかり言おうと思ったが、普段渡される敏感になっている肌を守る用のマスクが今日は渡されず、もしかしたら遅刻したからかな、とありえそうもない理由を考えたりしているうちに言うタイミングを逃してしまった。
これまでの私はこうした単に現在性だけで重要に感じられる過去をとどめようとはしなかった気がする。しかし、一定のルールに従ってした準備をして形をつくっておけばある程度勝手にあったまったりあるいは冷えたりして固まるプリンのようなものだと思いたいし、プリンの味はプリンを食べてみるまでわからないとどこかで読んだ記憶があることは、確かなように思う。

15時あるいは16時の話

高校生の頃、たしかに私は意志の力を信じていたように思う。より正確には、意志が現実世界に及ぼす影響を、その意志の推進力を疑わない方が自然な程度には有用だと思っていた。漠然とそれまでの学校教育は「意志をもつことの大切さ」を折に触れて訴えてきたように感じるが、触れる現実世界の側面との相互作用でその思いは固められたものだろう。

このあいだ休日の15時ころ、バスに乗っていた。喫茶店で買いたての本を読み、コーヒーをゆっくり飲み、寒さに備えしっかりトイレで用を済ましたうえで、喫茶店を出て、バスに乗り込んだ。しかし、バスが動き始めて数分後になんと尿意に襲われた。ああもう一度行っておけば良かった、としか言いようがない事態が現出したが、私は実はバスに乗る前もう一度トイレに行こうとしていた。わざわざバスがまだ来ないのを確認して、トイレに向かったのだ。しかし、最寄りのトイレは清掃中のため封鎖されていた。そこで、私は、何か提案して相手に難色を示されたときにまるでそんな話なんてはじめからなかったように振る舞うときみたく、「それなら私は全然こだわりませんよ!」という態度で、別のトイレを探すことなく、バス停へと戻ったのであった。そのような私の人間味溢れる経緯があっても、尿意は別の原理によって貫かれていた。まったくおさまることなく、一次関数の如く当然単調増加していった。隣に人が座り、緊張感が高まると、それはもう大変だった。と同時に私は汗をかきはじめた。そうか、汗をかけば尿意もおさまるかもしれない。発汗も放尿も体内から水分を出す手段であることには変わりないし、ある高次においてその差なんて存在しないといっていいだろう。

(↓この動画を思い出した)

https://youtu.be/IEiHmj4xgLc

結論からいうと、私は無事だった。尿意の臨界点を発汗によって超えずに済んだのだろう。その日履いていたものは冬なのにかなり薄めの生地だったため(だから冷えたし)お漏らししてたら、わざわざお漏らしの跡の目立つボトムスを身につけてお漏らしをした人になっていたところだった。

そして、これはまた別の休日に、私は昼過ぎにシャワーを浴び、それなりに長い時間湯船に浸かった。そのあと、髪を乾かしたり、様々な身の回りの手入れをしているうちに、お腹が空いてきて、近くにあったキャラメルポップコーンを広げて食べ始めたら、なぜかとても苦いのだ。それも味が変だというのがわかったのはほとんど食べきるときだった。舌が痺れる感覚もしてきてなんだろうと考えたら、おそらく私は乳液を顔に塗りたくった手でポップコーンを食べていたか、もしくは乳液を顔に塗りたくりながらポップコーンを食べていた。口をゆすいでもゆすいでも口内の違和感はなかなか消えなかった。

上記のどちらも私の意志とは無関係に起きた事件であった。どちらも夕方の15時か16時に起きた些細な痛ましい出来事だった。それは小学生にとっては学校がおわって友達と一緒に家へと帰る時間であり、気が抜けてしまうのも無理もない話だ。小学生とは背景は異なるが、私もなんらかのバイオリズムでこの時間、どこかふわふわしてしまいがちなのかもしれない。

現在の私は、意志の力をあまり信じていないように思う。今まで見てきた回数がきっと万では聞かないだろう「複雑化する現代社会」、巨大なシステム、それとともに尿意、他者、無意識、あるいは季節や天気といった強力な面々がいるのである。ただ、意志を現実世界との関わりにおいて意味されるものだとすると、これは少し年をとった私が、あの頃より現実世界と確かな接面を失っているということを示しているのかもしれない。

生きる時間が足りない

 週5日勤務とか一日8時間労働とかほんとバカだなと思う。それですら最低ラインって、生きてるヒマを確保するにはどう考えても時間が足りないだろ。

 まあ中高生のころはもっと時間が足りなかった。それでよくやっていけたなあと思うけれど、あのころは目の前のことで時間がいっぱいいっぱいでも「いつかもっと」という気持ち一つでやっていけた。というか、それがあったからやっていけた。いつかもっと知識や技術が身について、行動範囲も自由にできるお金も増えて、そうなったときに思う存分好きなことに費やすために、今は蓄えの時期としてとにかく受験勉強やら何やらに打ち込むのだ。……

 期待通り、あの頃に比べたら知識も技術も行動範囲も経済力も広がったし、できることは確実に増えた。でも結局これだ。何も思い通りになんていかないんだよなあ。日本、ほんと明日からでも、いっせーのーでで週休3日になりません?

 何もできないまま眠ってしまうのが嫌で、毎日夜中まで延々とスマホを眺めている。無駄に睡眠時間を減らしているなあとは思いつつ、それでも例えば0時から一本映画を見てしまおうとは思わないが、布団の中でいつでも眠れる状態にして、でもギリギリまで起きていてみよう、みたいな抵抗は試みてしまう。いや、やりたいことをやるのでもやらなきゃいけないことをやるのでもない、どうでもいい時間が日常にあるということはそれだけで健康なことだと思っていて、その時間が睡眠を削ることでしか得られないのが不健康なだけなのだ!!

 今年の後半になってからもう2回もパソコンの大事なデータが消える憂き目に遭っていて、そろそろ何もかも嫌になってきたところです。オチはない。

 

佐為の暴力が明らかになっていく物語 ジャンプ的成長物語の傑作『ヒカルの碁』

 勤労感謝の日に実家に帰って、ふと『ヒカルの碁』を読んだ。

 

ヒカルの碁 全23巻完結セット (ジャンプ・コミックス)

ヒカルの碁 全23巻完結セット (ジャンプ・コミックス)

 

 

 主人公が成長していく様を描いたジャンプ漫画として、この作品はジャンプ史上最高傑作と呼んでいいんじゃないかなと思う。題名で「碁」と名打っているが、この漫画は碁の漫画ではない。思春期の少年の成長物語である。

ヒカルが碁に向かうまでの描写が丁寧

 この漫画は、囲碁にのめり込んで行くまでのヒカルの心理的過程を、実に丁寧に描き出している。何しろヒカルが自発的に囲碁に向かうまで、単行本で4冊くらいある。主人公がスポーツなりゲームなり料理なり、何かに打ち込むジャンプ漫画は多くあるが、打ち込むまでの過程をこれだけ長く書く漫画は他にないのではないだろうか。

 おそらく囲碁というジャンプ読者の大多数にとって馴染みの薄い題材を選択したがために、例えばサッカー漫画等であるように「ライバルへの対抗意識」とか「弱い自分を克服するため」とかそういう単純な動機で主人公を囲碁に向かわすことは難しいと原作者は判断したのだろう。

 ヒカルが碁に打ち込むことになるまでの過程には、思春期の少年が抱える問題がいくつも登場する。例えば外から見られる自分(=佐為のいう通りに打ったことでほぼ最強近いパフォーマンスを出してしまい、強豪に追われる立場になった自分)と実際の自分(=碁など全く知らないし、自信を持てる技能を持たない自分)との乖離。また、打ち込む対象を見つけられない根無し草的なありように対する葛藤など。

 これらの問題に悩むヒカルの姿には共感できるし、それらと対峙する中で碁に向かって行く動機も納得できる。だから碁など全く知らない私のような大多数の読者も、「囲碁よくわかんない。読むのやめよう」とは決してならないのである。むしろ碁に向かうヒカルの心理的過程を追うことで、ヒカルというキャラクター、そして佐為にどんどん惹きつけられて行く。自然と、碁にも関心が高まってくる。

佐為の暴力

 ところで、今回改めて読み直して思ったのだが、この作品はなかなかシリアスなテーマも扱っている。それは佐為の暴力である。

 佐為はヒカル以前に江戸時代の囲碁の達人本因坊秀策に取り憑いていたということになっている。秀策は彼自身相当の腕前を持っていたが、佐為が取り憑いて以降、秀策は佐為の指示する通りの碁を打つようになった。そして、秀策は佐為の強さにより名声を獲得する。

 佐為は碁がもっと打ちたい、さらなる高みに到達したいという一心で、秀策に自分の碁を打たせるわけだが、このようにして秀策を自分の身代わりのように扱ったことの暴力性について、佐為が気づくのは、逆に今世で自分がヒカルに取り憑いた理由が、ヒカルの成長のためだったのではないかということに思い当たってからである。ヒカルは佐為のもとでメキメキ力をつけ、途中から佐為にあまり打たせなくなる。それを横目に見て、佐為は自分がヒカルに取り憑くことになった理由に思いをめぐらしたのだった。

 何かのために利用される側に立って初めて、自分もまた人を自分のために利用してきたことの暴力性に気付く、とまあ、こう書いてしまうといかにも凡庸なテーマだが、むしろ着目すべきは、この暴力性が、全く清算されずに終わるところであるだろう。

 

碁に殉死する存在としての棋士

 作品終結部で人のために碁を打ち、人のために生きるということが、「遠い過去と未来を繋ぐ存在としての棋士というテーマに回収されていく。棋士という存在の役割、運命が長大な時間的スパンの中の一部を継ぐことに求められ、秀策や佐為の死を意識するならば、棋士は碁という文化のために殉死するものと位置付けられている

 それでは、成長物語の主人公であるヒカルもまた、碁に殉死する存在としての位置付けを免れ得ないのだろうか。

 このことを考える上で注目するべきと思われるのは、佐為の消失後にヒカルが秀策の棋譜を見て改めて佐為の強さに気づき、慟哭する場面だろう。

過剰なヒカルの泣き顔

 今回読み直して思ったのだが、ヒカルが慟哭するこの場面は描き方として相当に奇妙である。まず作中でここほどヒカルの顔しか書かれなかった数ページはないだろう。しかも、モノローグ(というか、独り言)もなんだか性急である。あまりよく覚えていないのだが、記憶だけで述べると以下のような形だった。

自分が強くなったことで、佐為の強さが初めて理解できた

→もっとあいつに打たせてやればよかった。

→俺なんかじゃなくて、あいつが打つべきだった

 

  このような思考の流れがヒカル自身によって語られそれぞれのコマではこれ以上ないほどに、読者のショタ心を刺激するようなヒカルの泣き顔、落ち込み顔が強調される。この辺りは読んでいて申し訳なくなってくる。いたいけな少年の泣き顔をこれほどあらわに、それも1ページのほとんど全てのコマにアップで映されると、一種の過剰さを感じてしまうのだ。本来それほどジロジロ見てよいものではないものを、コマに従えば信じられないほど何度も、それも正面から見ざるを得ない。

 このシーンは、ヒカルの改心をこれでもかというほどに強調するために挿入されている。ここでヒカルは、自分のために碁を打つことよりも、自分よりはるかに神の一手に近い存在に碁を打たせることの方が、碁全体の発展に寄与するという観点から佐為に打たせるべきだったと言っているのである(もちろん、心の支えになっていた佐為との急な別れを受け入れられずに、戻って来て欲しい一心でそう言っている、という側面もあるのだが)。

 こういった個に対する全体を優先させる思想は、やはり個に対する暴力性を孕む。佐為自体はヒカルの独創的な手を横で面白がり、後押しするような温かな支援者であったりしもしたのだが、敗者を排除するような勝負の世界の過酷さは、やはりより優れたものを是とするような思想にヒカルを置いていく。このような暴力性こそが囲碁という共同体を成立させる一つの掛け金なのだということを作品は第一に述べているように思われる。

 そこでは棋士はあくまで、過去と未来をつなぐための多くの駒のうちの一つにすぎず、過去から未来へとつながる、そのつながり全体こそが優位に置かれているのだ。

 しかし他方で、消えかかる佐為がヒカルに対し、「楽しかった」と言おうとしたように、神の一手から程遠いところにあるような、目の前の一手を元にしたヒカルと佐為との関係のありようにもまた、固有の意味がある。「過去と未来をつなぐ存在としての棋士」のいま・ここ性がいかに描き出されているかということが、この漫画の成否をわけるポイントである。

 

ヒカルの身体の描出

 そこで見るべきなのは、おそらく思春期にあるヒカルの身体の描写なのだろう。ヒカルの少年らしい肢体の様々な動きは作中で生き生きと描き出されており、身体を持たない霊的存在である佐為とは対照的である。囲碁というと青白い痩せた少年をイメージしがちなのだが、小麦色に日焼けし、前髪部分を金に染め、ジャージを着込むヒカルは普通に運動部の少年っぽい。なんなのだろう、このギャップは。

 今日は疲れたので、続きはまた今度書きます。

 

親に反抗する子供達の様が安易かも… 映画ITを観た感想

 昨日友人に誘われて映画ITを観た。前半は映し方、テンポともに本当によく、ハリウッド映画のソフィスティケーションはすごいなとただただ感心していた。ここ最近Jホラーばかり観ていたこともこの感想に影響している。

 しかし、表題にあげた通り、後半の、特に親に反抗する子供達の描写は鼻白むものであり、残念に感じた。以下、簡単に感想を書こうと思う。

 なお、表題でマイナスイメージの感想をあげてはいるが、全体としてよくできており、観る価値は十分にあったことを強調しておきたい。

 

 

ITってどんな映画?

 映画ITについて知りたい方はまずは以下のリンクから予告編をご覧ください。

 

wwws.warnerbros.co.jp

 

 予告編で興味を持った人はwikipediaの概要をどうぞ。簡単にまとまっています。

 

IT (映画) - Wikipedia 

 

 映画のあらすじをごく簡単にまとめるなら、連続失踪事件が起こる街で、その原因となっているピエロ、ペニーワイズと子供達が戦うというもの。あまりにも要約しすぎているのでこれだけ聞くととてもつまらなさそうに感じるだろう。

 観る前の私自身もリンク先のウィキペディアのあらすじを読んで、なんだかつまんなそうだなと思っていたのだが、観初めて、とにかくその鮮烈なイメージの連続に心を掴まれてしまった

 

 

子供達のトラウマのイメージ化

 ペニーワイズはどうやら子供達個々の抱えている恐怖の心象イメージに自在に形を変えることができるらしい。恐怖のイメージは子供達が成長するにつれて自分の中に形作る世界の見方や、その過程において受け取るトラウマと連関しているため、並行して子供達それぞれの、主に家庭・家族の問題が語られる。

 

 例えばヒロインの女の子は父親から性的虐待を受けていることが示唆されており、また、第二次性徴の起きる体に対して不安を覚えている。

 そんな彼女のもとにペニーワイズからもたらされる恐怖体験は排水溝から吹き上がる血に勢い良く晒されるというもの。血は経血や処女喪失のメタファーであり、その血をかぶることは性徴による子供時代=性以前の身体の侵食、及び父による支配に対する屈従を示しているのかなと思った。もちろんこの辺はどう読もうが自由。

 

 

鮮烈な恐怖のイメージが秀逸 

 とにかく、それぞれの子供が有する恐怖の表象の書き方が秀逸である。それらはただ単に「驚かしてくる」、「痛そうな感じがする」、というだけでなく、こちらの胸にノータイムで何らかの揺さぶりをかける「鮮烈な怖さ」を喚起してくるのだ。

 

 この鮮烈さは、人が何かを恐怖するとき、一体何に恐怖しているのかということの核心を特定し、それをうまく膨らましていく監督の能力によるものだろう。これに関しては、掛け値無しに賞賛にあたいする。

 

 例えば邪悪なピエロ、ペニーワイズはそれ自体のルックスとしては正直大して怖くない。

    別にデザインが悪いと言っているのではない。これはこれで洗練されているのだが、私はそもそも明視できる存在は怖くないと思っているので、ペニーワイズに限らず、大部分のホラー映画で、観客に細部が見えてしまうような形で出現する霊的存在は、全般的にあまり怖くないと感じてしまう。

 しかし、映画中の数カ所で、ペニーワイズはなかなかに怖い。動きが怖いのである。このピエロ、本当に様々な動きをする。中でも、終盤のゲームで言えばボス戦にあたる場面、炎の中から少女を襲うべく現れたペニーワイズの顔面は固定されており、身体だけが活発に動く場面は、印象に残る。外見上は生きた人間のように見える存在が、本当はそうではないのかもしれない、という不安を煽られる故の怖さである。私たちと同様の身体を持ち、ということは同様の運動の限界を持っているはずの存在が、その矩をはるかに超えるような運動性を発揮するのも、怖い。

 

 と、ここまでは褒めてきたのだが、以下では残念だった点に関して述べる。

 

 

恐怖を乗り越えることによる、ペニーワイズへの対抗

 それぞれの子供達がそれぞれに有する恐怖イメージを、ピエロであるペニーワイズ(=IT=「それ」は霊でも悪魔でもなさそうだが、超人間的存在というのもあんまり当てはまらないような…。こういう存在を名指す名前を、アメリカ文化に詳しい人は教えてください)が具現化すると聞けば、「ペニーワイズに対抗するには、個々の子供達が自分の中にある恐怖心を乗り越えればいいのだ!」という展開になっていきそうだと、聡明な読者はすぐに気づくかもしれない。

 その通りである。ということで、映画後半は子供達がそれぞれのトラウマや、それぞれの閉じ込められた小さな世界を乗り越えたりする場面が散見される。 

 

 そして上に述べたように、彼ら子供達の世界を規定しているのは両親という絶対的権力者である。彼らは親達の、しばしば歪みまくっている支配から逃れていく…のだが、あまりにも簡単にそれらを乗り越えていくので、冒頭に書いたように鼻白んでしまった

 

 

随分簡単に、親の支配から脱していく子供達

 例えば先ほど紹介した父親の支配を受ける女の子は、後半のあるシーンで、父に性的関係を匂わせるような「お前は俺のものだろう」的な台詞を投げかけられるのだが、意を決したようにそれを大声で拒絶し、迫ってくる父に金蹴りを食らわせ、バスルームで殴り倒すことになる(あれ、死んだのかなあ)。

 

 もちろんこれ自体は随分激しくはあるものの、ありえなくはない、と思ったりもするのだが、父を恐れ、父に話しかけられるたびに緊張した表情を浮かべていた女の子がこのように勇ましくなるまでの間の彼女の中の変化がほとんど全く描かれていないため、面食らってしまう。

 まあ、私の観ていないところで随分と大きな変化をくぐり抜け、葛藤の末ついに父と暴力的な対決をするまでにも勇ましくなった、ということなのだろうが、観客としてはそのあまりの変化に戸惑わずにはいられない。つまり展開が性急なのである。

 

 同様に、過保護すぎる母の「あなたのため」的なセリフにより健全な少年が享受すべき自由を奪われてきた少年は、その母が、少年を保護する口実としてきた彼の病気(?)の治療のための薬がプラシーボ=偽薬であることをドラッグストアの女の子に告げられたことで、母に対する不信感を募らせ、反旗を翻すのだが、これもなんかあまりにも性急。

 まあ私の観ていないところで彼もさっきの女の子同様さまざまな葛藤をくぐり抜け、ついに自分に対する母の保護が、自分の体のためを思ってのものでは本当にはなく、自分という存在を母の保護下に置くこと自体のためにおこなわれていたのだということに気づき、歪んだ母の愛情を自覚するにいたったのだろうが(お母さんは家を出て行く彼に「私を見捨てないで」的な言葉を投げかける)、全然その辺りのことが描かれていないため、なんだか少ないヒントでいともやすやすと親の支配を乗り越えていくように見えてしまう。

 

 子供達の世界における問題、特に親との関係の歪みをもとにして子供達が受ける影響というのはもっと隠微に、長期間続く、脱出の困難なものだと思うので、もう少し丁寧に扱って欲しかったなと思う。時間的制約があるのでなかなか難しいということはもちろんわかるし、色々大変なのだろうけども。。。

 

 

とはいえ、とても面白かった

 とはいえ、冒頭に述べたように全体としては良くできているし、観る価値は十分にあった。続編が作られるらしいが、観にいくと思う。鮮烈なイメージの世界の中で、恐怖を感じたい、という人は是非観てください。