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東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

あけましておめでとうございます:経済分野の新書を読んで迎えた年始

 あけましておめでとうございます。

 年末年始はだらだら本を読んだり映画を見たりし、その合間に美味しいものをしこたま食べるなどしていたら終わっていました。そう言えば、お風呂屋にも三回行きました。以下では、読んで面白かった本を紹介します。なんとなく経済の本を読もうと思い立ち、2冊読んでみました。

 

本:志賀櫻『タックス・ヘイブン−−逃げていく税金』

 これは相当面白かった。国際的なお金の流れと、それを規制しようとする法・政策との関係が素人にもわかりやすく書かれていた。  

 

タックス・ヘイブン――逃げていく税金 (岩波新書)

タックス・ヘイブン――逃げていく税金 (岩波新書)

 

 

 裏社会が関係する漫画や映画を観たりすると、よくスイスや太平洋の島々の金融機関にマフィアのお金が云々とかいう話が出てきたりして、これまで全く理解していなかったのだが、この本をよんでそういうお金の流れがよくわかった。この本を読むまで、不正に稼いだお金は、保管も使うのも難しいという前提がわかっていなかったので、「スイスに口座とかってなんなの?」状態だったのである。

 

※ちなみにそんな当たり前の前提すらわかっていなかった私が観たりした「裏社会が関係する漫画や映画」とは例えば『攻殻機動隊』とか、映画「ボーダーライン」とか、『闇金ウシジマくん』とか。どれも、後述する「マネーロンダリング」に関する知識があればもっと楽しめたのに、とこの新書を読み終わったあとになって思う。

 

 不正に稼いだお金は、一旦その出どころがわからないように洗浄=launderする必要がある。ここで出てくるのがよく聞く「マネーロンダリング」なのだが、その手法として、お金の流れを秘密にする法律やそれに類するものがある「タックスヘイブン」と呼ばれる地域の金融機関に預けたり借り入れたりするという方法がとられるとのこと。

 例えば日本の金融機関にお金を大量に預けると、そのことが税務署等に知れ、どうしてその人が突然そのように大金を持つに至ったのかということが明示的・非明示的に問いに付されるのだが、一旦タックスヘイブンに入ってしまったお金に関しては、金融機関の情報を秘密にするというその地域の法律に守られ、その流れが見えなくなる。こうしてタックスヘイブンは間接的に犯罪を幇助するような機能を持ったりする。

 ちなみに筆者はこのようなタックスヘイブンを批判する立場。もちろんただ批判しているのではなく、金融情報を秘密にする法制を作ることで他の場所では不可能な取引の場を作り出し、手数料収入等を稼がなければやっていけないという各タックスヘイブンの経済状況改善を同時に世界が考えなければいけない、というご意見である。

 

本:本山美彦『金融権力−−グローバル経済とリスク・ビジネス』

 先に紹介した『タックス・ヘイブン』で「もっと経済のことを知りたい」という気分になったので、数年前に序盤だけ拾い読みしてそのままにしていた本山美彦の『金融権力』を読んだ。

 

金融権力―グローバル経済とリスク・ビジネス (岩波新書)

金融権力―グローバル経済とリスク・ビジネス (岩波新書)

 

 

 これも本当によい本だった。以前読んだのは、サブプライムローン問題を皮切りとし、現代の金融界における格付け会社の役割とその功罪や、格付け会社が必要とされる背景となる、利ざやを稼ぐことをその至上命題としたヘッジファンド等の投資家たちの行動原理が紹介された序盤。

 序盤を過ぎると、序盤で紹介されたような状況がどのように生じてきたか、そして経済学がこれらの新たな状況の中でどのように発展してきたかということが説明される。素人には難しいところもあるが、著名な学者たちの個人史や彼らがいかに考えたかということがコンパクトにまとめられており、一応わかったような気分にさせてくれる。

 と紹介してくると、本書は客観的な立場に立った現在経済を観る上での指南書のように思われるだろうし、序盤だけ読む限り、そうだろうと思っていたのだが、中盤あたりから、著者が部分部分で割と強く自分の考えを主張する本であるとわかってくる。

 そもそも金融は、人々の生活をよりよくする発明等を行う潜勢力を持つにも関わらず、資金が手元にないのでできないような人に、お金を「融」通するためにあるという前提に立てば、そのような金融の役割を無視し、ルールの網をかいくぐって利ざやを稼ぐ行為は倫理的にはよくないものの方に位置付けられることになる。

 利ざやを稼ぐという行為が、結果的にお金のないところにお金をもたらす方向に向かえばよいのだが、現実はそうなっていない。むしろ、アジア通貨危機などの例をみれば、利ざやを稼ぐことを至上命題とする行動は、社会の安定や発展を阻害することになりかねない。

 著者はこのように、金融の世界における権力者たちの行動を明確によくないものの側に位置付け、そうではなく、みんなでお金を融通しあってよりよい社会を作ることはいかにして可能かということを問う。本書後半部では、そのような試みとして、NPOバンクなどが紹介される(ちょっと調べた限りでは、本書後半部で紹介されるより良い社会を作るためのオルタナティブな金融的試みは、あまりうまく行っていないみたいだが…)

 私はどちらかというと「岩波的」とされる思想に共鳴するところは多く、この本を読んでいても大いに頷いてしまった。個々人の自由な経済活動の追及が公益には通じないことも多くある。そこをつなぐ聡明な政策があれば問題は解決するのだが、それを期待するのは難しそうである。

 結局自分のした行いが回り回ってどの人々にどのような影響を与えてしまうのか、ということに関し、想像力を持つことが重要だなと思う。しかし、「自分はそういった想像力を持っている」という人々が往往にして一番盲目だったりするのであり、私益を追求しながらいかにして倫理的でありうるのか、ということに関しては、きちんとどこかで考えなければいけないなと思っているところ(こんな書き方では「きちんとどこかで考えなければいけないな」といかにも思ってなさそうだが)

 

今年もよろしくお願いします。

 

 以上、いずれも良質な読書体験でした。今年も色々な本を楽しみながら読めるといいなと思います。本年もどうぞよろしくお願いします。

 

マジョリティの言い分

 日曜朝のヒロインアニメはもう長いこと見ていないんですが、2018年に「子育て」がテーマの作品をやると聞いて黙って聞き流す気にはなれなかったので、全然関係ないんだけど思い出したことを書く。

 私はむしろ、マンガにしろ映像作品にしろ一昔前の子供向け作品ばかり好きで、今でもそういうのをよく見ているのだが、例えば90年代くらいまでの特撮ヒーロー番組なんかだと、子供を愛さない(母)親なんていない、というメッセージがしょっちゅう出てくるのだ。私自身はそういったメッセージを負担に感じたことはなかったのだけれど、そういうものを息苦しく思う人も決して少なくないということを、最近ようやく知った。私はたまたま、そういうところで描かれる理想の家族に近い形の環境で生きてくることができたので、おそらくだから何も違和感を感じなかっただけだった。

 今は、そういうメッセージ通りの家族で幸せな人はそれでいいし、そうじゃない家族でももちろんそれでいいのだ、と思っている。でも、例えば「家族は仲良くするものだ」なんて言われるのは苦痛だ、という意見に初めて出会ったときの衝撃は大きかった。そうできない、したくない家族もあるんだから押しつけるな、と言われて、じゃあ家族が好きな私の方が悪かったのか、古い価値観を温存するだけのダメな存在なのか、そうじゃない家庭に配慮して肩身を狭くして生きていかなければいけないのか、と感じた。嫌な親なら仲良くなんかしなくてもいい、と言っていただけで、別に仲の良い家族が仲良くしてはいけないと言われたわけではないのにね。家族を好きだと思うのは当然で、それが正しいことだと思って、なおかつそれを実行して生きてくることができた子供には、傲慢にも、それ以外の在り方を受け入れることすらできなかった。

 だから例えば、男女格差の問題でちょっと女性側が権利を主張すると途端に男性差別!と言い出したり、言い過ぎだワガママだと非難したりする人間が(女性にも)多いこと、ようやく腑に落ちたのでした。今まで我慢を強いられてきたマイノリティの人たちが声を上げたとき、そうじゃない属性の側の人が特権を侵害されたように感じて反発するという構図、反発する方がバカじゃねーのとばかり思っていたけど、自分だって結局同じことをやってたんだよなあ。そんなことにもずっと気付かずに生きてきてしまった。

 今はただ、少なくとも、女=母=子育て!母性愛!みたいな一方的なレッテル貼りで誰かを息苦しく思わせるようなことがこれ以上続かないような2018年になればいいなあと思う年の瀬なのでありました。

物語を読めなければ死ぬ Jホラー映画の論理と『リング』

物語ることで生きる

 

 人は生きる中で、自分の人生の物語を措定する。本当は大部分偶然が重なって、たまたま今のような自己があり、またこれからも同様に大部分偶然の作用によってこれからの生が形作られていくはずだが、それらの偶然に意味づけをすることにより、偶然の偶然性を捨象し、その人にとっての、なんらかの必然性を見出していく。

 例えば、たまたま周囲に足が速い人がいなかったため学年で一番足が速い子がいたとする。その子が、「そういえば自分は子供のころからスポーツが好きだったし、得意だった。これからも足の速さに関しては誰にも負けない」などという物語を作ったとすれば、これは上で挙げたような偶然を必然性ととりかえ、自分の物語を作ったことに他ならない。誰もがこのように物語を作り、その物語に依拠して、現在の自己というものを確定している。

 偶然培われた可能性も十分にある性向を、家庭環境に還元して物語ろうとすることなど、誰もがよくやるのではないか。例えば「うちは代々実業家気質で、みんな結構独立心旺盛なんだ」とか。また、偶然に出会われた出来事を自分のこれまでの行いに対する賞罰に還元したくなる人も多くいるだろう。突然の不幸に見舞われて、「これは身勝手な私に与えられた試練なのだ。」とか。

 どの物語に関しても、「当たりだ」「外れだ」ということは実証的にはわからない。だから、「僕の人生の物語における語り手=僕の中ではそうしとこう」ということに過ぎないのだが、確からしい物語は他人の強い支持を受けることができたりもするので、ふと調子に乗って、それが自分の物語=フィクションに過ぎないことを忘れかけたりもする。

 今年3月に出た千野帽子さんの本は、人と物語との関係について語った本であり、以上の事情もわかりやすくまとまっていた。

 

 

 この本はweb連載をもとにしているので、内容の多くが以下から読める。

www.webchikuma.jp

 

 

 このように自分の人生を物語=フィクションとして捉えることは、人に迷惑をかけない限りは悪いことではない。それどころか、私はその人にとっての「その人の人生の物語」の虚構性を安易に暴くことは暴力的だとすら思っている。多かれ少なかれ、人は自分の作った物語に依拠して生きているのだから、いろんな人と一緒に生きていくということはその人の物語=フィクション=ウソの中に紛れ込んでいる、その人にとっての「本当のこと」を尊重することだからだ。…といって、できないことも多いのだけれど。

 

 
ホラー映画を観るのはなぜだろう

 

 そこで表題にあるホラー映画である。僕はとてもホラー映画が好きで、よく直近に見たホラー映画の話を同僚にしようとしたりするのだが、あまり芳しい反応をいただけたことがない。「観ないですか?」と聞いたりすると「私ホラー苦手なんです。怖いじゃないですか。グロテスクだし。」という返事が返ってきたりする。確かにその通りだ。怖い、グロい、可哀想、痛そう、悲しい。こう並べてみると、なんでこんなもの観るんだろうと思われて来る。しかし僕は観たい時は割と片っ端から観る。

 「なぜ私はホラーを観るのが好きなだろう」−−−そんなことを時に考え、時に完全に忘れ、その問いとの関係においては不真面目な生活を送ったのち、先日たまたま映画『リング』を観返しながら、ピンときたことがあった。もちろん、それでホラー映画が好きな理由を言いつくせているわけではないが、しかし理由の一つを明らかにしている気がする。

 そしてその理由は、上で述べたような、人が生きる中で、物語を語らざるを得ないことと関わっている。

 

 

ホラー映画の主題は、生前の物語を探すこと

 

 『リング』は観たら一週間後に死ぬと言われる呪いのビデオを観てしまった女=浅川玲子の物語だ。玲子はその呪いを解くべく、元夫=高山竜司に協力を依頼し、二人で一週間の間に様々な画策をする。呪いのビデオに呪いをかけたのは誰なのか。そして、どうして。玲子らの必死の調べの中でそれらが明らかになっていく。

 

リング

リング

 

 詳しいあらすじは以下を参照

リング (1998年の映画) - Wikipedia

 

 『リング』を観返しながら、ホラー映画にしばしば現れる霊的存在への現世の人々による対抗は、その霊的存在の生前の物語を読み解くことによって行われるのだな、と気付かされた。

 『リング』で呪いのビデオに呪われた玲子が取る手段は、呪いの背景を探り、その原因を断つことである。これは多くの幽霊譚と同様だ。生前思い残すところがあった者が死後霊的存在として猛威を振るうに至った場合、生者が取れるのは大抵、その者の鎮魂・供養であり、そのためには自分らに呪いをかけるものが何に対してどのような思いを抱き、今このように呪いを自分らにかけてきているのかを、その存在の認識に即して正確に読解しなければならない。

 つまり、呪いを解き、猛威を振るう霊的存在を前にして生き延びることとは、その存在が呪いを開始するに至った物語を見つけることと不可分なのである。

 『リング』という映画が秀逸なのは、この「物語を見つけなければ死ぬ」という呪いの根本原理を最後のどんでん返しにうまく利用していることだ。

 

 

物語を誤読すると死ぬ

 

 玲子と竜司の調べで呪いをかけた存在は山村貞子という女と特定された。彼らは貞子の怒りを鎮め、呪いを解くために、貞子が呪いをかけるにいたった原因を特定した上で、貞子がいま、何をして欲しがっているのかということに関して推測する。そして、貞子の死体が眠っているとされる井戸の底に潜り、どぶさらいをしてその骨を見つけ、地上にもどしてやることで、呪いを解こうとする。

 どぶさらいの最中、一週間後に死ぬ呪いをかけられた玲子が規定の時間を迎えたが、彼女は死ななかったため、彼らはこの方針が正しいことをいよいよ確信した。

 しかし、その後、時間差でビデオを観た男の方は一週間後の時間を迎えて呪い殺され、女は自分たちの行為が結局呪いを解き得ていなかったことに気付かされる。つまり男は霊的存在=貞子の物語を読み違えたため、死ぬことになったのである。ここで、他人の物語の誤読は即、死に直結している。

 

 ホラー映画では多かれ少なかれ、超人間的・超道徳的な霊的存在(『リング』では山村貞子)が現れ、破壊的な暴力を生身の人間に対して振るう。ひ弱な現世の人間たち(『リング』では上述浅川玲子や高山竜司)は力という点では決して彼らにかなわない。現世の人間は、彼らの生前の物語を発見し、正確に読解するしかない。霊的存在たちの実証的な事実だけ捉えても、彼らの呪いを解くことはできない。読むべきなのは、彼らにとっての、彼らの中での真実性である。それは、彼らの人生の物語=フィクションを読解することでもある。

 このように、他人の物語の誤読が即、死に直結するという進み行きが、私にとってホラー映画が魅力的なものである理由なのだろう。なぜならそれは、物語を読むということの、もしかしたらわかりやすぎる効用を示しているからだ。つまり、至極単純にいえば、生き延びるために私たちはフィクションを読むのだ。ホラー映画というトポスでは、読解対象が霊的存在にとっての、彼らの中での真実、つまり一般的にいえばフィクション=虚構=「ウソ」のことも多いのだが、「ウソ」だからといっていい加減に読むことはできない。

 ホラー映画は絶望的で残酷で、できれば目を背けたい描写が続く。しかし、誰一人生きのこらずに終わるホラーは稀である。むしろ、力の面では決してかなわない存在に現世のひ弱な人間たちが対抗しうるという結末は、私にとっては希望に溢れたものに思われる。それも、大きな暴力に対し、正面から同様の大きさの暴力を当てるのではなく、それ自体最も非力に思われる方法−−−すなわち、読むことによって。

 

暴力を描く作品を欲する

 ふらふらとただ快を求めているうちに、快に溢れるというのではないが、不快がほぼない生活を得た。「得てしまった」という方が正しいかもしれない。通勤時間は長いが都内からの下りなので行き帰りともに座れないということがない。大抵の場合は座った席の隣に人がいないほど空いている。少し時間をずらすと、ボックス席に私しかいないということがありえる。こうなって初めて、電車の中で座ることができれば楽だと、立っている時の不快感をだけ念頭に置きながら思っていたのだが、座るにしても隣に人がいるのといないのとでは大きく違うのだなと気づく。

 職場ではこの時期主にデスクワークである。個々の裁量が高い仕事であるから、あまりとやかく言われることはない。事務作業が中心なので、社外の人とわずらわしいやりとりをする必要はない。快は時折しか訪れないが、不快はない。一人暮らしを始めたので、家でも自分の自由な時間に、自由にことを運ぶことができる。

 このような生活を送ると、感情を刺激されることがなくなる。強い不安に駆られることもなければ、怒りや悲しみを感じることもない。だからなのか、奇妙なことに、ここ数日陰惨な夢ばかり見るのだ。

 

 例えばおととい観た夢は、口論の末妹を複数回殴りつける夢だった。僕は人間の顔をグーパンチで殴ったことはないし、平手で打ったこともない。それは僕の中で最大のタブーのようになっている。DVなどの体験談で、夫が妻を殴るという描写を読んだりすると、文字通り目を覆いたくなる。そのような行為を自分がするという夢であった。僕が複数回殴りつけるうち、妹の顔は腫れ、膨れ上がっていった。殴りつけた直後の一瞬は自分のしたことの恐ろしさに震え上がるのだが、続く妹の反応を見てしまうと、そこからさらに大きなダメージを受けることがわかっているので、それを否定するように連続して殴りつける。

 

 起きてからその夢について考え、会社に遅刻しそうになった。僕は妹と様々な点で感性がことなるので、彼女を忌々しく思うことはあるし、彼女も僕を忌々しく思うことはあるだろう。しかし僕たちは、少なくとも小学校以降、身体的な暴力を振るい合うということはしてこなかった。今後もそうなのだろうし、それは自然に、そうなっていた。…で、この夢というわけだ。

 いくつか考えた末の結論は、僕はある周期を持って暴力に方向付けられるということだ。自分が振るうというのではないが、暴力を描く作品を読んだり、書いたりするなど、暴力に接近することを必要とする。特に、日常に何の変化もない時。したがって、感情が引き延ばされたり、捻じ曲げられたりしない時。そういえば、見える世界のどこにも暴力が見当たらないと思った時、僕の内部では暴力的なものへの接近が始まっている。

 暴力への接近は何のためだろうか。平穏な日常の存立機制の思わぬ脆弱さ(暴力で容易に壊れる)と、それが実際に成り立っている目の前の状況の緊張感(その成立は、複数の暴力の拮抗)を改めて感じたいのである。それは、書物で遠くにある世界のことを知ったり、思考実験のようにして知性を使うということではない。より肌感覚に迫るような、周囲の世界と、その中で生きる自己との関係性について考えたいという欲望であるのだと思う。

 

 そういった事柄に気づいて、暴力を描く作品を読んでみようと思い、『闇金ウシジマくん』という作品を立ち読みしたのだが、私の中で「顔を殴るような暴力」に位置付けられる苛烈な暴力描写の連続に一巻半くらいで挫折してしまう。本当は、それらの暴力描写が何を壊しているのか、何を明らかにしているのかということを直視し、考えなければならないのであり、それが人の暴力性にまつわる、深いところの何かを明らかにしているのか、単なる暴力描写を消費したいという欲望に供される暴力描写なのかということを明らかにしなければならないのである。しかしちょっとその体力もなく、「やっぱりグロいだけでは全然暴力描写としては優れていないよな」という当たり前の気づきと、「こういうのを読んでいたら性格が歪むのではないか」という小並感溢れる感想を抱いて、Coopで40%引きの寿司を買い(安い!)、改めて日常に戻っていく。

 そのような金曜日だった。

 

あの頃に戻りたくない

 ハタチを過ぎたあたりから年を取るのが嫌になった。などと思ったりはしていながら、昔に帰りたいとか子供に戻りたいとは、想像していたほど、というか全然、思わないんですね。

 こういうことを実感するために私はたくさん言葉を書き散らしてきたのだ。過去に自分が書いた文章を読んでいると、あんなに何も知らなくて何も考えられなかったころの自分が今よりも良かったなんて絶対に思えない。だからあの頃に戻りたくない。

 日記らしきものは小学6年のときからほぼ途切れずに書き続けてきた。ネット上でも何かしら意見を書き付ける場所を設けて5年くらいになる。ちゃんと人に読ませるために格好付けて書いた作文もずいぶんあるはずだ。で、たまに読み直してみると、これがもうとても読めたものじゃない。さすがに昨日の自分はそこまで客観的には見直せないとして、1年くらい前の文章になるとほとんど他人事みたいで、まあまあ良いことも言ってるなーなどと思うこともあるのだが、3年くらい前になるともうダメだ。恥ずかしい。ごくたまに10年前の自分の文章に感心できることもあるが、ほとんどは恥ずかしいだけだ。

 

 このへんになると、もう今の私との同一性がどれだけ保たれているのか自信が持てない。書いたのは明らかに自分なのだ。忘れたわけじゃない。でも思考があまりにも違う。

 例えば自分が中学生のときの記憶ははっきりある。あんなことを考えたなあ、という経験も自分のものとして覚えている。それなのに、そのとき考えた内容を見直すと、その経験を記憶している今の私の頭と、同じ私の頭で考えたこととはまるで思えないのだ。感じ方が違いすぎる。

 そのときどきで書いているときは真剣だったし、全力で言葉を選んでいたはずなんだ。それを覚えているからこそ、その内容のしょうもなさに今見ると驚いてしまう。間違いなく私が考えたことなんだけど、こんなこと私は考えないんだよ。ほとんど他人の思考みたいで、そうなると、過去の自分ってどこまでが本当に自分なんだ?

 

 ここでも何回か書いたけれど、この10年くらいで随分知っていることが増えた、というより、知らないということを知っていることが増えた。でも、それは単純に頭が持ってる経験の量が増えたっていう話じゃなくて、そこからはじき出される思考という結果の方もこんなに変わるってことだったんだなあと、最近気付いたところだ。過去の自分が「自分」じゃなくなるという感覚に最近初めて遭遇して混乱している。

 今が一番マシだ。今やってることが一番マシかどうかはまた別問題だが、少なくともものを考えられるかどうかということに関しては、今までの中では今が一番マシ。で、今後もどんどんマシな自分を更新していく予定だから、少なくとも後ろに戻りたくはない。となると今書いている文章も、何年かしたらもうとても読めたものじゃなくなるんだろうけれども、それでも一応、そのときどきで何かを真剣に書いておくことが重要だと思うので、今はここにぶっちゃけておくことにしました。

照射(ショウシャ)

昨日、生活で起こったことを書いてみて、現在、また書きたいという気持ちが生まれている。
これまで他者を意識する際の緊張が、公開するつもりで文章を書く際にも、走り、沈黙は金として抑圧してきたものが限りなくあったはずだし、任意の出来事を書くにあたって、必然性にかんして疑問符がつくのも仕方ないと、自分自身に対して思うところもある。
沈黙を守ることは、価値判断は別にして身の処し方の一つであり、極論を言えば、生物としての生存戦略であるかもしれない。
結果的にそれは生活において、自分を混沌に任せて流していくことにつながる。
溺れる夢のなかで諦めることを繰り返すようなものだと思う。そのようにしか生きれないということは、いくらでもあるけれど。

 

こう書いてみて、昔に読んだ文章を思い出していることに気がついた。

「このあとに展開するのは一篇の小説である––というか僕を主人公にした瑣末な出来事の連続である。こんなふうに自伝的なものを書くということが唯一無二の選択というわけではない。とはいえ僕にはこれしかない。もし目にしたものを書かなくても、やはり苦しいだろう––そしておそらくは、その方が少しだけきついだろう。「少しだけ」という点を強調しておく。書くことはほとんど慰めにならない。それは物事を再び描きなおし、範囲を限定する。ごくわずかな一貫性を生む。一種のリアリズムを生む。ひどい靄のなかでまごついていることに変わりはない。いくつかの指標があるにはあるという状態だ。混沌まであと数メートル。実にぱっとしない。
読書の持つ絶対的、脅威的な力と、なんという違いだろう!一生読書して過ごせたら、どんなに幸せかと思う。僕は七つの時分にはすでに読書の力を知っていた。この世界の仕組みは痛々しく、生きづらい。僕にはそれが修正可能とは思えない。実際、僕には一生読書して過ごす方が向いていると思う。
そんな人生は、僕には与えられなかった。」

これは、ミシェル・ウエルベックの『闘争領域の拡大』のなかの一節だ。

何故、書くのかということについて、こうした趣旨の回答をする作家は他にもたくさんいることと思う。

 

ただ他にも思い出されるものはある。今読んでいるポール・オースターの『記憶の書』には、「いかなる言葉もまず見られることなしには書かれえない。ページにたどり着く前に、それはまず身体の一部になっていなければならない。心臓や胃や脳を抱えて生きてきたのと同じように、まずはそれを物理的存在として抱えて生きなくてはならないのだ。だとすれば記憶というのも、我々のなかに包含された過去というより、むしろ現在における我々の生の証しになってくる。人間がおのれの環境のなかに真に現前しようと思うなら、自分のことではなく、自分が見ているもののことを考えねばならない。そこに存在するためには、自分を忘れなくてはならないのだ。そしてまさにその忘却から、記憶の力が湧き上がる。それは何ひとつ失われぬよう自分の生を生きる道なのだ。」とあった。

 

記憶として存在する過去の現在性は過去そのものではなくても、過去の名残に触れることができるし、私は先ほどあった脱毛クリニックでの出来事を思い出している。率直に言って、出来事らしい出来事はなかったけれど、今回の担当者の人によって、以前の看護師の人たちより、なんとなく落ち着いて施術を受けられた気がしたというくらいだった。夏ごろに、歯医者で治療を受ける直前に気分が悪くなって脱水と目眩がして、休ませてもらってしばらく後帰宅、ということがあったから、私にとってそれは重要なことではあるのだろう。けれどせいぜい落ち着いて受けられたというくらいで、出来事らしい出来事はありませんでした。きっと看護師なら技能給というものがついているだろうけど、レーザーの機械を使うのに例えば採血ほどの技術の差が生まれるようには思えない。いつも通り照射はそれなりに痛みを伴った。でも、凄く良かった気がした。冷却も済み、最後にせめてありがとうございました、としっかり言おうと思ったが、普段渡される敏感になっている肌を守る用のマスクが今日は渡されず、もしかしたら遅刻したからかな、とありえそうもない理由を考えたりしているうちに言うタイミングを逃してしまった。
これまでの私はこうした単に現在性だけで重要に感じられる過去をとどめようとはしなかった気がする。しかし、一定のルールに従ってした準備をして形をつくっておけばある程度勝手にあったまったりあるいは冷えたりして固まるプリンのようなものだと思いたいし、プリンの味はプリンを食べてみるまでわからないとどこかで読んだ記憶があることは、確かなように思う。

15時あるいは16時の話

高校生の頃、たしかに私は意志の力を信じていたように思う。より正確には、意志が現実世界に及ぼす影響を、その意志の推進力を疑わない方が自然な程度には有用だと思っていた。漠然とそれまでの学校教育は「意志をもつことの大切さ」を折に触れて訴えてきたように感じるが、触れる現実世界の側面との相互作用でその思いは固められたものだろう。

このあいだ休日の15時ころ、バスに乗っていた。喫茶店で買いたての本を読み、コーヒーをゆっくり飲み、寒さに備えしっかりトイレで用を済ましたうえで、喫茶店を出て、バスに乗り込んだ。しかし、バスが動き始めて数分後になんと尿意に襲われた。ああもう一度行っておけば良かった、としか言いようがない事態が現出したが、私は実はバスに乗る前もう一度トイレに行こうとしていた。わざわざバスがまだ来ないのを確認して、トイレに向かったのだ。しかし、最寄りのトイレは清掃中のため封鎖されていた。そこで、私は、何か提案して相手に難色を示されたときにまるでそんな話なんてはじめからなかったように振る舞うときみたく、「それなら私は全然こだわりませんよ!」という態度で、別のトイレを探すことなく、バス停へと戻ったのであった。そのような私の人間味溢れる経緯があっても、尿意は別の原理によって貫かれていた。まったくおさまることなく、一次関数の如く当然単調増加していった。隣に人が座り、緊張感が高まると、それはもう大変だった。と同時に私は汗をかきはじめた。そうか、汗をかけば尿意もおさまるかもしれない。発汗も放尿も体内から水分を出す手段であることには変わりないし、ある高次においてその差なんて存在しないといっていいだろう。

(↓この動画を思い出した)

https://youtu.be/IEiHmj4xgLc

結論からいうと、私は無事だった。尿意の臨界点を発汗によって超えずに済んだのだろう。その日履いていたものは冬なのにかなり薄めの生地だったため(だから冷えたし)お漏らししてたら、わざわざお漏らしの跡の目立つボトムスを身につけてお漏らしをした人になっていたところだった。

そして、これはまた別の休日に、私は昼過ぎにシャワーを浴び、それなりに長い時間湯船に浸かった。そのあと、髪を乾かしたり、様々な身の回りの手入れをしているうちに、お腹が空いてきて、近くにあったキャラメルポップコーンを広げて食べ始めたら、なぜかとても苦いのだ。それも味が変だというのがわかったのはほとんど食べきるときだった。舌が痺れる感覚もしてきてなんだろうと考えたら、おそらく私は乳液を顔に塗りたくった手でポップコーンを食べていたか、もしくは乳液を顔に塗りたくりながらポップコーンを食べていた。口をゆすいでもゆすいでも口内の違和感はなかなか消えなかった。

上記のどちらも私の意志とは無関係に起きた事件であった。どちらも夕方の15時か16時に起きた些細な痛ましい出来事だった。それは小学生にとっては学校がおわって友達と一緒に家へと帰る時間であり、気が抜けてしまうのも無理もない話だ。小学生とは背景は異なるが、私もなんらかのバイオリズムでこの時間、どこかふわふわしてしまいがちなのかもしれない。

現在の私は、意志の力をあまり信じていないように思う。今まで見てきた回数がきっと万では聞かないだろう「複雑化する現代社会」、巨大なシステム、それとともに尿意、他者、無意識、あるいは季節や天気といった強力な面々がいるのである。ただ、意志を現実世界との関わりにおいて意味されるものだとすると、これは少し年をとった私が、あの頃より現実世界と確かな接面を失っているということを示しているのかもしれない。