On the Homefront

東京大学文科3類ドイツ語クラス卒業生の共同ブログです。個々人が、それぞれに思うことを述べていきます。

大急ぎロシア観光 その6:偉大なる都市への讃歌

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 列車を降りた瞬間、ホームで流れてきた音楽があまりにもよく知っている曲で、今度こそ本当に涙が出てきてしまった。グリエールバレエ音楽『青銅の騎士』の終曲、『偉大なる都市への讃歌』。

 音楽というものは他のどんな分野とも比べものにならないほど軽々と人に時間旅行をさせるもので、音と記憶がガッチリくっついてしまうと、もう剥がれることはない。グリエールは私にとって、既にそうなってしまった側の音楽だった。それというのも私、吹奏楽部でこの曲を演奏したことがあって、だからこの曲を聞くと演奏した当時のことを思い出さずにはいられないのだ。懐かしいなんてものじゃない、目の前にあの頃の教室の映像が勝手に流れ出すような感覚。

 そもそも「青銅の騎士」とは、他ならぬこのペテルブルクにあるピョートル大帝像のこと。後で知ったことだが、この曲はサンクトペテルブルクの市歌にもなっているらしい。ロシアに縁のある音楽を演奏したことがある、ということすらその瞬間まで全く忘れていたのに、今ここでその壮大な音楽に合わせてこの地を歩いていると思うと、もう運命感じちゃって朝から涙が止まらないわけです。俺は来るべくしてここに来たんだ! サンクトペテルブルク、偉大なる都市!

 

 そんなペテルブルクなんだけど、この日宿泊したホテルの名前は「ホテル・モスクワ」。これがアレクサンドル・ネフスキー修道院の目の前にあって、私としては最高の立地だった。何しろこの修道院内にある墓地が目的地の一つだったので。

 もともとロシアに来ようと決意したのはロシア音楽にハマったのが原因なわけで、その19世紀の偉大な作曲家たちが眠っている場所がこのチフヴィン墓地なのだ。ちょうどというかなんというか、その日はムソルグスキーの命日……の翌日だった。なんかやっぱり、私は今来るべくしてロシアに来ているんじゃないだろうかね。ホテルに荷物だけ預けたら、オープンと同時くらいにチケットを買い、墓地をゆっくりと歩いて回った。時刻は9時半。まだまだ静謐な朝の空気が神聖性をかきたてる。

 この時ほど地球上の、つい数日前まで寝起きしていた日本の自分の部屋と今立っているこの場所との、距離の大きさを感じて恐ろしくなったこともない。こんなに遠く、本の中でしか見たことのなかった場所に、こんなにあっさり、来てしまえるものなのか。私がロシアにまで来ようと思ったまさにその原因の人物、一世紀半も過去の人物が、ここに眠っていて、その目の前に自分が立っていて、しかも後ろにはこれから滞在する近代的なホテルの建物が見える。全てがあまりにもちぐはぐで、そこにいるだけで考えなければいけないことがありすぎる。

 歴史上の人物は、歴史の中だけに生きているわけじゃなくて、今ここにあるこの都市で生きて生活していた一人の人間なんだよなあーーーと、それは当たり前のことなんだけど、国を隔てただけで随分特別なことのように感じられてしまうのであった。

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 到着して真っ先に念願を叶えられてしまったので、初めてでなんとなく不安だったモスクワとは打って変わって、朝からテンション爆上げで私のペテルブルクは始まったのでした。続きます。

ポテンヒット、馬が合わない、スポブラ


2001年から始まった漫才のコンテスト、M1グランプリが今年も開催されている。
勝戦の行われる年末にむけて、現在、準々決勝までが消化された。

(読み飛ばしてほしいんだけど、これまでお笑い関連の記事を書いたことがなかった気がするので、自分がお笑いを全く知らない人なのかそれともどんな感じに追ってる人なのか、一応書いておきたいように感じるので書くと、結局多くの人はお笑いをある程度見るのではないかと思うので、私は自分がお笑いファンかよくわからないが、好きな芸人のトークライブや大手事務所主催ライブや全国区ではない芸人の自主企画ライブなどにいったことがあるので、そういうレベルでお笑い好きなんだと思う。賞レースは生で見たことはないけれども、決勝戦に関して言えば、2007年のサンドウィッチマン優勝以降はリアルタイムでテレビなんかで見てて、それ以前のものも遡ってレンタルや配信で全部見たと思う。先日決勝戦が開催されたキングオブコントもそうだが、好きだったネタは何度も見返したりしている。という具合で、比較的お笑いファンの方なのかもしれない。)

3回戦や準々決勝のようすはGYAO!でも配信されており、私は早速知ってるコンビを中心に手あたり次第再生し、見て、笑ったりした。

一度眠りにつき、起きると漠然と先ほど見た動画たちの印象が思い出された。自分が思い出すのはなんとなくどのネタが面白かったなという印象と、先ほど見たとき何かに気づいたように感じたけどわからなかった何かだ。

見取り図というコンビのネタのなかで、謎の納得感というか高揚感というか、忘れていたくらいちょっと昔に流行った脳科学の専門家の口を借りれば「アハ体験」のようなものを表面的に味わっていたけれど、そのときつまりその体験が深いものになったのであった。

準々決勝で彼らの披露したネタのなかで「スポブラ」という言葉が登場する。これは別のネタのなかの別の展開のなかでも言っていたような、とそれを突如思い出した気がした。youtubeで再生した形跡のある動画をいくつか見ると、やっぱり言ってて、第52回上方漫才大賞で披露していた、オシャレについてのネタで言っていた。ちなみに今回のネタは、色気のある大人の仕草を切り口にしたネタだった。(こうして書くと似たようなテーマですがね)

構成の全く異なる2つのネタで、ボケとして登場する「スポブラ」は、スポーツブラジャーの存在やネーミングなのか、その言葉に、強烈にいわゆる「なんなんだ」、「なんやねん」、あるいは「なんなんほんま」的に思い、ある意味めちゃくちゃ衝撃を受けた単語なのだろうなということが表現されてしまっているような気がするし、控えめにかけば少なくともそんな想像が膨らむ。そうした個人のこだわりは衒ってできるものではないように思い、面白いし、メッセージとして受け取れる余地があり、得した気になり、まったく嫌な思いのしないものだと思う。誰かが言っているからという理由で乗っかるという悪口やヘイトスピーチの逆のものを感じる。
似たような言葉として、天竺鼠の川原さんがバラエティ番組(イロモネア)でおこなったショートコントで振りを重ねたうえで言ったボケとしてつかったり自身のyoutubeチャンネルで曲のタイトルにもしたり色々な場面で口にする「ポテンヒット」(川原さんは高校時代など野球部だった)や、鳥居みゆきさんが様々な番組のフリートークやコントのなかで使っている「馬が合わない」という言葉も、そのようなものとして感じている。

最近ツイッターでは文脈関係なしに「死ね」みたいな発言があれば、違反報告の積み重ねでアカウントが凍結されるということがあるが、言葉の暴力はべつにわかりやすいものだけではないし(「言葉の暴力」という言葉が一般に指し示すのはわかりやすいものだけかもしれないが)、言い換えるとある種の言葉による攻撃が自分にヒットしたとき、これはなんなんだろうと思い、誤解をおそれずにいえば本当の意味で傷ついて、大袈裟な言い方をすれば忘れられないでトラウマ化しまうことはあるし、それを無害化するかのように自分の作品や話のなかに織り込んで自分なりの意味をもたせていくというのは、衝撃を受けてまるで凍ったようにかちこちに固まってしまうよりも、言葉の世界から逃れられないとすれば、柔らかくあたたかい素敵な生き方であるだろうと思う。

大急ぎロシア観光 その5:乗り物のこと

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 ドム・クニーギからの帰りは一人で地下鉄に乗った。モスクワの地下は交通網が発達していて電車の本数も多く、どこまで行っても値段は一定なので、目的地さえ分かっていればてきとうに乗ってもわりとなんとかなる。したがって乗るまではそう難しくないのだが、降りる方がやたら難しい。

 というのは一度乗ってしまうと、乗った駅から指折り数えるか、よく聞こえない早口の車内放送(当然、ロシア語のみ)を必死で聞き取る以外、今自分がどこの駅にいるのか情報を得る手立てが何もないのだ。ホームに駅名の標示も見当たらない。当然、電光掲示板のような親切なものはない。車内掲示の路線図もロシア語のみで、ラテン文字すら影も形もない。その上いちいちバシンッ!と勢いをつけて閉まるドア。なかなか飛び込むタイミングのつかめない大縄飛びのような緊張感がずっと続く車中の時間だった。

 

 ここにいると、自分アジア人の顔してるなーって思う。普段日本にいてこんな感覚になることはなかったので、これはちょっと新しい経験だった。ロシアでロシア人、いや少なくとも白人以外の人を見かける機会は、東京で黄色人種ではない人を見かける機会よりも格段に少ない。ただ、だからといって特別視線を感じるようなこともない。いかにも外国人観光客です、という見た目でいても何も気にされないのは気楽だし、安心感すらある。まあ、気にされなさすぎていきなりロシア語でガンガンまくしたてられて困ったこともなかったではないのだが……

 

 

 あっという間にモスクワとはお別れ。ペテルブルクには夜行列車で移動する。駅で売店を眺めたりしながら電車を待って、寒いホームはササッと通り過ぎ、チケットとパスポートを見せて車内に上がり込む。

 4人部屋のコンパートメントには、自分の他に紳士と若い男性が乗っていた。スーツケースをしまったり備え付けのスリッパを配ったりしている間、2人がロシア語で会話しているのが聞こえてくる。私も挨拶くらいロシア語でと思っていたら、尋ねられたのは「ドイツ語は分かるか?」……そ、そうきたか……!

 2人ともドイツ語もロシア語も話せる人だったようで、少なくとも2種類の言語で会話していたのだが、一体どれが母語だったんだろう。どちらにしろ私にとっては全く未知の言語ではないだけ幸いと、語学の記憶を総動員して意思疎通を試みてみたのだが、これがいざ話すとなるとまるで何も出てこないのだ。ドイツ語とロシア語がごっちゃで聞こえてきて、もう、ヤーがяなのかjaなのかわけわかんない! そんなたどたどしいやり取りにも2人はすごく親切にしてくれて、ひとりっきりのアジア人には涙が出るほどありがたかった。

 「私は日本人です」だけはロシア語で言えるように用意してきたので、中国人か?と聞かれたときは内心ガッツポーズである。名前を名乗ったら不思議な音だと言われた。ロシア人の名前は決まり切った何十種類かの中から選んでつけるものだそうだけれど、日本語の人名の生成性からすると信じられないような話だよなあと思う。

 

 ……気付いたときには明るくなっていて、窓の外には木造の小屋と畑、モスクワとはまるで違うのどかな景色が見えた。そののどかな風景も軽い朝食と熱いお茶をとっているうちにあっという間に通り過ぎ、次はいよいよサンクトペテルブルクですよ!

宮崎駿の新作タイトルが『君たちはどう生きるか』だと聞いて驚く

 

   どうやら宮崎駿の新作映画のタイトルは、朝日新聞によれば『君たちはどう生きるか』らしい。正直かなり驚いた。この情報は朝日新聞デジタルより。

www.asahi.com

 

   同記事にも言及があるように、このタイトルは吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』からとったもの。

 

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

 

 

『君たちはどう生きるか』はこんな本

   この本は一時期繰り返し読んだので、懐かしい。ウィキペディアからこの本に関する情報を引用しておこう。


『君たちはどう生きるか』は、児童文学者であり雑誌「世界」の編集長も務めた吉野源三郎の小説。山本有三が編纂した「日本少国民文庫」シリーズの最終刊として1937年に新潮社から出版され、戦後になって語彙を平易にするなどの変更が加えられてポプラ社岩波書店から出版された[1]。児童文学の形をとった教養教育の古典としても知られる[2]。

君たちはどう生きるか - Wikipedia


   引用部に「「日本少国民文庫」シリーズの最終巻」とあるように、同書は当初戦時下の少年たちを対象として発刊された。

   「君たち」という高みからの呼びかけとともに、生きるという大きなテーマをストレートに問う題名から推測されるように、読み手の人格を陶冶することを目的の一つとするような「教養書」、修養書の類であると言えるだろう。


   この本で描かれるのは叔父さんを筆頭にした良識ある大人の導きに沿って物事を考えるコペル君という少年のありようである。コペル君は叔父さんの導きを受け、社会科学的なものの見方を身につけながら、個人とその集まりとしての社会、そしてその中にあっての自己という三者の望ましいあり方について考えをめぐらす

 

漫画化までしてるんだ

   以上の紹介文を読めばわかるだろうが、つまりは多分に説教臭い内容であり、今これを持ち出すのは時代錯誤であるのでは?などと思うのだが、続くwikiの説明文に最近漫画化されたという情報が載っており、驚いた。

 

s.magazineworld.jp

 

   特設Twitterアカウント(@kimitachimanga)によれば、30万部突破とのこと。こういうのを喜ぶ人が結構いるんだなあ。岩波文庫として出ている原作からしてがそもそもベストセラーで、大きめのブックオフにいけば100円コーナーに二、三冊見つけることが出来たりする。


   漫画版は上のリンク先から一部試し読み出来るので読んでみたのだが、感想としては、引用も多く、全体として原作に忠実という印象を持った。原作が一部の教養人の間で聖典化されているきらいがあるので、原作を損なわないように注意したのだろう、と漠然と思われる。本当に数ページしか読んでいないので、この印象は信用しない方がいいのだが、全体を確認できた目次などは原作の引き写しに近い。

 もともと原作が子供向けにわかりやすい言葉で描かれており、また挿絵も結構挿入されているのだから、これなら原作を読めばいいのではと思ってしまうが、まあ、人によっては岩波文庫というだけで身構えるだろうし、これもいいのかもしれない。

 

 
  ・・・と、すっかり『君たちはどう生きるか』の紹介になってしまったが、本題は宮崎駿の作品に現れる教育というモチーフのつもりで書き始めたのでした。しかし長くなりそうなので本題に関しては次の記事で改めて書きます。

 

→相当力を入れて書いたのですが、あまり読まれなくて悲しい。『君たちはどう生きるか』がどんな映画になるかを予想したので是非お読みください。

 

queerweather.hatenablog.com

 

 

 

 

社会と個人〜二項対立とスペクトラムとそのあいだ〜

ツイッターなんかを見てると、たまに架空の対義語をつくったりしてる言葉遊びのようなものがタイムラインに流れてくるけど、私は小学校のころ、類義語と対義語の勉強をしていたとき、「社会」という言葉の対義語は「個人」であると習って、そこそこ驚いた記憶がある。

 

今思えば、類義語や対義語を誰が決めてるのだろうか、辞典編集者なのか、そのドリルをつくった人なのか。あるいは、日本類義語⇆対義語協会、みたいな機構があるのかもしれない。とにかく、個人と社会が対義語の関係にあると聞いて驚いた、というか、そういうことにしてるんだ〜、みたいな感慨があったという方が近いかもしれない。対義語はその語と逆の意味を示す熟語と習っていたから、納得できるようなできないような気分を味わった。

 

さて、通例として高校や大学や大学院を卒業したりすると、社会人になったりする。たいていは学生ではないということが強調されているから、例えば今また国語の参考書を開いて対義語の単元を学習して、学生の対義語は社会人ですとか、社会人の類義語は大人ですなんて書かれていたりしたら(そんな参考書はありえないけど)、じゃあ学生の類義語は「子供」になるってことなんでしょうかとか思いつつも、個人の対義語は社会と知らされたときほど驚愕しないだろうし、あまりこだわらなければテキトーにまあそうかもしれないですね、と流せそうなレベルな気がする。

 

両者の対義語関係がなかなか腑に落ちなかった幼少期の私は、その違和感を上手に言語化できなかったか、あるいはしてたのかもしれないが忘却の彼方(「子供」はこういう風に軽んじられがちですね)なので、今の私がどういう言語感覚でそれらの語をとらえているかというと、なんというか個人の集合が社会だと思っているのだと思う。一部と全体の関係として考えていて、個人たちを総称的に社会と言えるという風に感じる。でも、ここまで考えて「個人」に含まれる「個」という漢字は単一性を示す文字だし、単なる一つというわけではなくその単一性を強調してるわけだから、そういう意味では、"a man" というより"one woman"みたいなニュアンスなのかなとか思えば、(まだ個人的には納得いかないけど)対義語としての説得力は増しそうな気がする。

 

愚痴はダメ?

 先日適当な記事を書いてしまってから、なんで愚痴っぽくなることがダメなんだ?と自分で自分にツッコミを入れる羽目になった。愚痴っぽくなるのは良くないと私が思った理由は簡単で、そういうことはあまり人に聞かせるべきことではない……ということになっている、と思ったから。愚痴を言っても良いことはない、聞かされる方も嫌なものだ、みたいな通念が頭にあったからそう書いてしまったのだと思う。

 

 実際のところ、私はけっこう他人の愚痴を聞くのが好きだ。愚痴というか、他人の怒りとか悩みとか、そういうマイナスの心情を傾聴することが嫌だとは思わない。

 もちろん、怒りを直接ぶつけられたい、という意味ではない。そうじゃなくて、例えば激しく怒っていたりどうしようもなく落ち込んでいたりするとき、どうしてそう感じたのか、何に対してそう思ったのか、そういう感情の在り方について聞かされるのが、好きだというとちょっと語弊があるかもしれないが、こう言っていいならとても勉強になる。怒るってかなり強烈な感情だし、どうしてこの人はそこに怒りを感じているんだろう、と探ることは、その人のことをよく知りたいと思ったら通らずに済む道ではないと思う。そういう意味で、愚痴を聞くのが好きというか、人が怒っていることについて聞いて考えるのが好きだと感じるのは、そんなに珍しいことではないのではないか。

 問題なのは愚痴ったり怒ったりすることそのものではなくて、それをどこに向けてどう表明するか、というところにあるということを区別しなければいけない。 

 

 ちょっと話は飛ぶけれど、最近何か炎上案件があったときなど、怒りを表明した人に対してモンスタークレーマーだwというようにケチをつけてくる外野を見てはうんざりしている。そんなことに文句つけてんの?と言って、怒っている人を戯画化するようなノリ。反論するわけでもないのにわざわざ他人の怒りを矮小化して封殺してくる態度がイヤ。

 だいたいそういうのって、冷笑的な態度を取れたもん勝ち、みたいな姿勢と表裏一体でやってくる。愚痴っぽくなるのがいけない、という考えもそこに通じていると思う。冷笑的な態度を取れたら勝ち、怒った方が負け、文句は言うやつが悪い、だから愚痴を言ってはいけない、大人しくイエスマンでいるのが正しい在り方なのだ、というように。

 

 悪いのは怒りに任せて他人を攻撃することなのであって、怒っているという感情を理性的に表明することは十分に可能だし、それは非難されるいわれのないことだ。現に私は人が怒っている話を聞くのが好きだし、それを聞いて共感できたり、人の振り見て我が振り直せと反省できたりすることもあるのだから、あながち単なる覗き趣味というわけでもない。

 別に、たくさん怒ろう!というわけではないが、愚痴っぽくなるのが良くないと過剰に抑制してしまうこともない。もっとふつーに、嫌だと思ったら愚痴る、でいいんだよな……。まあ、たまには好きなものについて書きたいという気持ちはそれはそれで本当なのだけれど……

ためしに読書記録〜読書の秋とわからない季節感〜

めちゃくちゃサボってました(すみません)

 

(最後に投稿したとき、めちゃくちゃ暑かったときの話をしたのに信じられないくらい寒くなってしまいましたね……)

 

インターネットに何か投稿ないし送信するとき、後から見たときに、なんかそこに等身大の自分の石像のようなものがグロテスクなほど強固に存在していて、一応自分の顔が、エクスキューズを口にできないその顔がしきりに瞳で訴えてくるようなさまと向き合わなければならないような気がして、(あるいはせっかくなのだからすごいログを残すべきなのだろうという、功名心なのか何もしないための言い訳なのか判然としないものがあり)それを抱えているような気がする。その姿が自分にしか見えないのならば、幻視と言っても医学上問題なかろうし、操作的にはひょっとすると守護霊じみたマスコットキャラクターとして捉えた方が有効かもしれない。登場人物たちが敵の変態キャラによって次々と石像にされてしまう回はトラウマだったけど、アニメの主人公は謎の精霊と数値化不能の絆で悪を倒すのだ。よくわからないですけど、今日は書いてみようと思った。

 

何も言ってないのとほぼ同じかも知らないですが、やはり小説を読まなかったり読めなかったりする時期はあり、私は江藤くんほど読書してないという自己評価なのですが、最近やや読んでます。

 

直近で読んだポール・オースターの『ムーンパレス』は、声優の番組で知った本だった。斉藤壮馬さんという声優で、この方は早稲田大学の文学部を出ていて、いわゆるアニメファンの間ではアイドル的人気も誇る男性声優だ。声優のラジオで「柴田元幸先生が訳されてて〜」とか聞けるのは、不思議なもので、妙に気分が高揚するので耳が幸せということなのかもしれない。

 

ポール・オースターは、周囲に何人かいる村上春樹好きの知人に勧められたことがあったような気がするし、自然に考えればあっただろうが、読んだことがなかった。個人的にアメリカ人の作家でハマった人がほとんどいなかったというのがある気がする。フォークナーやヘミングウェイを何冊か読んだことはあったけれど、あったのは確かだと思うけれど、ただスペインの牛追い祭りとか広漠たる森とか漠然としたイメージが思い出されるだけで、情緒的には残っている印象がない。サリンジャーは『フラニーとゾーイ』も『ナインストーリーズ』も静かに熱狂して面白く読んだ覚えがあるが、勝手なことに自分の中でサリンジャーは米文学とカテゴライズされてない。そういえばフィッツジェラルドの『グレートギャツビー』は高校の時に読んだな。

 

とにかく、いい機会にと読んでみたので、感想を書きたいと思うのですが、前置きの長さに比して、感想、というか印象は短すぎるかもしれません。

 

まず今回の読書は、サリンジャーとかを読んだときのように啓示を受け取る感受性で読んだわけではなく恐らく、ちょっと気になっていたアメリカ文学、というか世界文学をちょっと気になる声優が紹介してたし、読もうという気分でした。フィクションの世界の光を浴びる、言葉の海で泳ぐという感じではなく、現実世界との距離を掴む読書というかたちというか。実際お湯を沸かしたりアプリゲームでオートプレイしながらだったり実際きわめて不真面目な読書態度だったので、叱られても文句言えないでしょう。

 

さて感想ですが、斉藤壮馬さんが言っていたように読みやすい小説でした。抽象的にいうと、人間が苦しんだり恋したり冒険したり常識外れの行動をしたり自由を追求したりする様子が具体的に早い展開で描かれていて飽きずに読めます。もう少し具体的に言うと、特に前半部の退廃したインテリの生活日記と形容したくなるストーリーは、一部のUTクラスタ(ギャグ的な態度でツイートを投稿し人気を誇る東大生のツイッターユーザー層のこと)を思わせます。主人公の自分を世界史のなかに位置づけて生活の出来事を思弁的に綴るようすは笑えますし、展開も深刻で、御都合主義的ではないように感じられて、最後まで一気に読めるような感じでした。

 

少なくとも今の私は読書体験のなかで、その周縁的なものを重視しているのかもしれない、なんの根拠もありませんが、昔はサリンジャーを読んだときはそんなことはなかったような気がする。今回は読んでいて、斉藤壮馬さんはどう読むんだろうと気になりながら読んでいた。だからだと思うが、作中に頭がおかしくなって子供の名前すら分からなくなってしまった母親が登場するのですが、ちょうどちょっと前に読み返した種村有菜さんの漫画作品『紳士同盟†』(集英社のりぼんで連載されていた少女漫画)にそんな母親が登場して、私が斉藤壮馬さんを知ったのは種村有菜さんがキャラクターデザインを担当するアイドリッシュセブンというアプリゲームなので、そのようなかたちで、私は現実世界で読書体験をしたということになる。